私は死んだ。間違いなくそう思った。何気なく見上げた空に一筋の閃光を見た時、恐れていたものが私の住むこの街の頭上で牙を剥いたのを私は悟った。
(終わった‥)
私は目を閉じ、静かにその時が訪れるのを待った。爆風があらゆるものを破壊し尽くし、この身体は数千度の熱線に溶かされる‥
(苦しくありませんように‥安らかに死ねますように‥)
恐怖の瞬間を前にそれでも心の中で祈らずにはおれない。だが核兵器が頭上で炸裂してしまった以上、穏やかな死などあり得ない事だった。広島、長崎の惨状は日本人なら誰でもが熟知している。あれから八十年近く経っている現在、核兵器の威力は実際に人々が暮らす世界に落とされたあの時よりも、格段に上がっている筈だった。
(許さない💢私達が何をしたというの?)
- 死への恐怖にさらされながら、私の心はそれでもこの事態を引き起こした当事者への怒りに打ち震えていた。彼等は世界のルールを無視し、核兵器やミサイルを開発しては実験を繰り返して全世界から嫌われていた。世界中から非難され制裁を受けていたその国は、絶対的な専制君主制を取る独裁軍事国家であり、そんな国が世界に受け入れられることなど普通考えられない。だがそんな国でも友好国は確かに存在し、そしてその友好国が影響力を行使した為に軍事国家の暴走はある程度抑えられていたともいえる。だがここ数年はその暴走が目に余るものとなり、友好国と見られていた国も次第に苛立ち冷たい視線を向けるまでになっていた‥その厄介な国が隣国といえる位置にある以上私も生活していて不安を感じない訳ではなかったが、それでもこの二十一世紀になった今になって、まさか現実に核戦争が勃発するなど思ってもみなかったのだ。
(私達は死ぬ‥でもあなた達も死ぬ‥そして大勢の人が死ぬ。たった一人の独裁者のせいで‥その男が支配する独裁国家が存在し続けた為に‥)
そこまで考えた時、私はふと穏やかな時がそのまま続いている事に気付き、死の苦しみを味わう事なく死んだという自覚も無いまま、もう天国にきたのかと思った。出来ればそうありたい。安らかな死を願っていた筈なのだが、まさか現実にそうなるとは思わなかった。だが‥何かがおかしい。確かにけたたましいサイレンの音と同時に核‥兵器なのかわからないものの恐ろしい飛来物の襲来を認識した筈なのだ。それらしい光も見た。同時にメディアからとも現実の世界からとも判別がつかない、沢山の悲鳴や叫び声も聞いた。だが、一瞬でここまで静まるものだろうか‥
私は訳が分からずに外に目をやり空にも目を向けた。するとそこには信じられない光景が広がっていた。恐怖に顔を歪め体を屈めてうずくまる人、ただ必死に逃げようとしている人、なす術もなく立ち尽くすだけの人もいた。だが、どう見ても彼等は全く動いていないのだ。そして私がそれまでいたと思われる家‥その室内には夫‥?息子‥?娘‥?つい先程まで同じ時を過ごしていたらしい家族と呼べる三人が、他の人達と同様恐怖の表情をしたままやはり立ち止まったまま動かない。私は混乱の坩堝に突き落とされた。同時に自分が何処の誰かも思い出せなくなったのだった。(落ち着け、落ち着け‥これは夢、私は夢を見てるのよ!絶対そう‥だがいくら自分に言い聞かせても、状況は何も変わらなかった。そして私反省やっと気付いたのだ。(時間が‥止まってるの?)
混乱したまま直ぐに空を見る。炸裂した筈の核は?閃光は?やはり頭上に見える。たとえ時が止まってもあれが取り除かれない限り、死は免れないだろう。そんな絶望的な感情が頭に浮かんだ時だった。不意に頭の中に声が響いた
(心配しなくてもいい。このエネルギーは我々が我々の力で消滅させる‥)
(えっ‥)
私は驚いて思わず周囲に目をやった。すると全てが止まってると思った風景の中で、私を見つめる一人の人物の姿を見かけた。
[お兄ちゃん!」一瞬夢かと思った。だがその人物は確かに静止していない。私は驚いたものの同時にホッとし安堵したのだった。
不思議なことに自分が誰なのかさえ俄に思い出せないのに、私はその人物を覚えていたのだ。その人物は本当の兄ではなく、確か従兄弟で兄のように慕っていた誠一郎だった。身なりからしてこの家の主婦という立場だったらしい自分なのに、その記憶も無いのに何故彼のことだけは覚えているのだろう。それとも自分はとっくに死んでしまって、これは死後の世界の出来事なのか?すると混乱し続ける私の頭の中に、謎の声が再び響いた。
(君は死んではいない。君は我々と同じ、地球で言うところの遺伝子を受け継いでいる我々の仲間なのだ‥)
(えっ‥)
謎の言葉は更に続く。
混乱しつつもその従兄弟の方へ目をやると、周囲のあらゆものが静止しているのに彼はただ笑顔でも頷くだけ‥だが謎の声は明らかに彼の声ではなかった。笑顔でも彼の口は閉じたままなのだ。
(あなたは誰?これは一体どうなっているの?)
当然のように沸く疑問を、私はその声にぶつけた。するとその重々しい口調の声は、直ぐにはとても信じられないことを、私に語り続けるのだった。
(我々は太古の昔、地球人が今火星と呼んでいるその星に住んでいた。地球人にとって我々は異星人だが、同時に太陽系の惑星に住む仲間でもあったのだ。地球よりかなり早く文明を極めた我々だったが、ある時環境の激変でかなり昔に火星は我々の住める星ではなくなった。我々は住める星を求めて、太陽系から旅立たねばならなくなった。)
声は語り続ける。
(地球はまだその時、今のように生物が生息出来る環境ではなかった。だが我々は故郷である火星は勿論、地球の事も決して忘れてはいなかった。離れていてもずっとこの星を見守っていた。いずれ火星、そして太陽系に戻りたいと願っていたから‥)
(そんな‥そんなSF信じられるわけが‥)
(ないか?ではお前が今見ている状況は一体何なのだ?夢だと思うのか?それともお前が思ってる通り、死後の世界の出来事だとでも言うのか?)
(だって、核が頭の上にあるのよ!そのエネルギーを吸収して地球上に全く被害を及ぼさないで消滅させるなんてそんなこと‥)
(我々には出来る‥)
(出来る?)
(ああ、今時間を止めてお前の頭に直接語りかけているのも我々だから出来ることだ。)
(それは‥テレパシー?あなたはもしかして、テレパシーで私の頭に直接語りかけてるの?私はあなた方と同じ?人間じゃないの?でも私は、確かにこの家の人間だった筈よ!母親?主婦?きっとそうよ!そんな立場の人間だった時の記憶は無いけど、私の今の姿はこの家の奥さんだった事を示してる。でも今の私はその時の記憶を思い出せない。だけど私は人間よ!怪我すれば赤い血が流れるし、病気にだってなる。なる筈よ!いきなりあなた方の仲間だなんて言われても‥)
(混乱するのも無理はない。君の身体の構造は殆ど人‥つまり地球人と変わりないからね。だが君の身体の根本にある原子とでも言うべきものは、我々が曾て太陽系を去る時残していった命のタネそのものなのだ。)
(命の‥タネ‥それは何なの?)
(詳しく説明する為には、君を我々の仲間であった時から過去を遡り記憶を甦らせなければならないが、今はそんな時間は無いのだ。でもそれが君自身にある限り、君は永遠に死ぬことはない。)
(命のタネ‥)
声は混乱しながらも自分が地球人だと主張する私の思いをあくまで否定し、諭すように穏やかな声ながらそれでいて信じ難い内容の話を語り続けるのだった。
(我々は地球でどんな生物が生まれてどんな進化を遂げても、その生物が穏やかに平穏に生きていけることを望んでいた。地球人が自らの力に奢る余り、争いで滅びるようなこと絶対に避けたかった。救いようのない未来になるのは、絶対に止めたかったんだ。だがこの星で初めて核兵器が使われた時、我々は止めることが出来なかった。)
(ヒロシマ‥ナガサキ‥)
あの惨状は日本人なら必ず記憶の奥底に留めている筈だ。そして声は静かに続けるのだった。
(そうだ、でも三度目は許さない。我々が止める。だから今回は我々が助けるのだ。そして核のボタンを押した愚かな地球人、その存在は我々が駆逐する。地球上で生きる資格のない地球人だから我々が連れて行く。)
(連れて行く?)
(そうだ、それは我々が強制的に生まれ変わらせるということを意味する。牙を抜いた上で記憶を消し、この星に戻す。その後のことは我々は関知しない。今の地球の現状を思えば、駆逐すべき人間は決して一人ではないように思えるが、直接核戦争の引き金を引いた人間だけを、今は連れて行くことにしている。)
(どうして、どうしてあなた方はそんなに地球のことを思ってくれるの?核戦争を止めてその上引き金を引こうとした人間を排除しようとまでしてくれる‥何故?)
全てがあり得ない信じられない状況の中で、私自身自然にその話、そして謎の声との会話を受け入れ続けていることに我ながら驚いていた。それでも声の主である彼等の意図は、やっぱり聞かずにはおれなかった。声はそんな私の問いかけに静かに答える。
(我々が命の種を植え付けたのは君だけではない。全てのものが静止しているこの世界で、今君を笑顔で見つめているあの男も、君と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間であり、地球上には君と同じ火星人の明確な子孫である地球人が百数十名程いる。それだけではない。我々が植え付けた命の種は、人以外の生き物や植物にも影響を与えており、この星に生命が誕生したその時からこの星の発展を陰で支えてきたのだ。はっきり言うがこの星自体我々火星人にとって、子供のような存在なのだ。だから滅亡等絶対にさせない。我々が許さない、必ず止める‥止めてみせる‥)
(だけど、核兵器は一度ならず二度も使われてしまったわ。そして何の罪もない大勢の人達が死んだ‥)
そこまでこの星のことを思ってくれていたのなら何故その時、最初に使われる前に止めてくれなかったのだ。あの惨状を知っている日本人だからこそ、やはりその言葉は口をついて出る。すると声は、今度は少し厳しい響きをもって私に答えるのだった。
(地球人の科学力がどれだけ発達しようと、それを愚かな行為に利用するならその星自体見捨てられても仕方のないことだ。原子力を兵器として使うことを思いついた地球人が核兵器を生み出してしまった時、遥か遠い宇宙にあってその事実を知った我々は、地球人の愚かさに憤慨しもうこの星を見捨てようとまで思った。そして核兵器は初めてこの星に生きる人々の上に落とされ、数万もの人々が亡くなった。)
(私たち‥日本人‥)
(ああ‥殆どがそう‥ただ、地球人が核兵器という作り出してはならない最終兵器を使用して悲劇は起きたが、それは地球人同士が核兵器で殺し合い地球滅亡に至る最終戦争には繋がらなかった。我々はその事実を確認した上で、核兵器の真の恐ろしさを地球人が思い知るべきだったのだとそういう結論に達したのだ。)
(だからヒロシマ、ナガサキは見捨てたの)
(勘違いしてもらったら困る。核兵器を生み出してしまったのは地球人自身だ‥我々は地球人の知能の高さや科学力の進化のスピードを見るにつけ、こういう悲惨な事が起きるのではないかとずっと危惧していた。そして我々が危惧していた通り、地球人はいつしか地球の主のように振る舞いこの美しい星に生まれて生きていける喜びを忘れてしまっていた。そして驕り高ぶった彼等は、到頭踏み込んではならない領域に足を踏み入れてしまった。)
(地球人がいつか核兵器のような作ってはならない兵器を作って、殺し合いをする事がないように願ってた‥地球の未来を案じていたのね。)
(ああ、確かにその不安はずっとあった。知能の高さゆえに争いは起きるのかもしれないが、我々はそれでも地球人が自ら滅亡するような方向に進まない事を願ってたんだ。我々は我々が住める星を求めて宇宙を旅する中で、自らの過ちで滅亡に至ったそんな星を幾つか目にしてきた。決して多くはないが‥もしかして地球も同じ運命を辿るのではないかと、本当に心配していたんだ‥)
(地球も自らの力を過信するあまり滅んでしまった、愚かな星の一つになりかねないと‥)
(その通りだ。だから今度は我々が介入して核戦争は止める‥仲間の為にも‥)
(仲間…?)
ああ、君も仲間だ。君の中の原子は世界に散らばって人間として生きている百数十名の我々の仲間と同じ、つまり君達は我々と同じ命の種を宿している。仲間がいる以上我々はこの星を見捨てるわけにはいかない。)
(わからない、わからないわ!いきなりそんな、自分が人間でないと言われても‥だったら私は死なないの?)
私と謎の声との会話は永遠に続くかと思われた。だがその時だった。
(ギリ、後は私が彼女に話します。もうこれ以上時間を止めておく事は出來ません。行って下さい!)
突然全く別の声が、私と謎の声との会話に割り込んできた。
(えっ‥?)
だが割り込んできたのは声だけではなかった。次の瞬間従兄弟だと記憶していた筈のあのいつもお兄ちゃんと呼んでいたその男が私の目の前に立っていた。
「あっ、あなたは‥」
やっと声が出た。と同時に今まで自分に語りかけていた謎の声の存在が私の頭の中で消えたのを私ははっきり悟った。彼は混乱する私を前にゆっくり笑みを浮かべると、静かに口を開いた。だが彼が話すその内容は、今までの謎の声と同様やはり私にとってとても信じられないものだったのである。
「君と同じで、僕も地球人ではない。地球人のDNAはあるが、原子に戻れば君や今まで君と属にいうテレパシーで会話していたギリと同じ火星人だ。」
そこまで話すと彼はどこか懐かしそうな表情になり、私にとにかく座るように促すと話を続けた。考えてみれば、地球人の女性として生きてきた記憶を取り戻せないのにお兄ちゃんの事だけを覚えているのも不思議な話だった。その話はやはり信じられない内容だったが、それでいて潜在記憶があるのか、何故か心の片隅に受け入れる事が出来るようなそんな話だった。パル‥地球人の名前が誠一郎である彼は語る。
「僕の名はパル、君と会うのはううん、何度目だろう。数百回にもなるかな。」
「数百回?」
「ああ、君は地球人として太古の昔から何度も生まれ変わってきた。その都度僕は、君の近くでずっと君を見守ってきたんだ。そして今、やっとパルとして話せる。そんな状態になったのは、勿論核ミサイルのボタンが押されたせいだが‥」
「会うのは数百回、見守ってきた?どういうこと?第一あなたには異星人としての記憶があるようだけど、私には全く無いわ。あなた方が何と言おうと私はやっぱり地球人なのよ!絶対そうよ!」
「違う、君は間違いなく我々と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間だ。」
「だったら、だったら何故‥?」
当然の疑問を投げかける私に、パルは根気強く話し続ける。その内容はどこまでも信じられないものだったが、私はもう否定しようとは思わなかったし正直する気ににもならなかった。あの頭上で炸裂する核爆弾の閃光を目にした時から、現実に彼等の話を受け入れない訳にはいかなくなったのだ。
何より地球を本当に核戦争の危機から救ってくれるなら有り難い事だし、だからこそそんな彼等の言うことには耳を傾けない訳にはいかない。私は今、確かにそんな気持ちになっていた。ただ、自分が地球人ではなく彼等と同じ異星人だという話はやはり受け入れる気持ちにはなれなかった。すると言葉にしなくともそんな私の思いが伝わるのか、彼は優しく声をかける。
「君と僕の記憶の違いは、この星が危機的状況に陥った時それを遠く離れた仲間に伝える為の通信機能をそれぞれの原子に埋め込まれているか否かによる。君の原子には埋め込まれていない。だから君は火星人の原子を持った上で地球人のDNAを持つ地球人として生まれた。だから地球人としての記憶しかないのだ。」
呆然とする私を前にお兄ちゃんの話は続く。
「そして地球人として一生を終え、我々と同じ原子を持ったまま再び地球人として生まれ変わる。君は地球人で言う女性、僕は男性として‥そして僕等は何千年もの人の歴史の中で、異なる人生を生きて何度も巡り合ってきた。ある時は兄妹、ある時は親子、ある時は恋人として‥そして今の君の人生では僕は頼りになる従兄弟‥一人っ子として生まれた君からは、お兄ちゃんと呼ばれ慕われてきた存在だ‥」
「お兄ちゃん‥」そうだ、その時私は、この非常事態が起きる前の平穏に暮らしていた頃の記憶が、一枚ずつベールが剥がれるように少しずつ戻ってくるのをはっきり感じていた。
私は日本という平和な国に生まれ育ったごく平凡な女性‥活発な方ではなく、どちらかと言えば大人しくて地味な性格でそれ相応に勉強も出来て普通に就職し恋愛も出来て結婚、出産‥母親になった。普通の人が辿るありきたりの人生を送ってきただけの、平凡な人間だった。
「そう、その通り‥だがそのありきたりの人生を送っていた普通の人々の当たり前の幸せが今壊されようとしていたのだ。」
彼は言葉にしなくても私の考えていることがわかるらしく、今起きている厳しい現実について私が何も言わなくてもすぐに言及した。その上で今度は私を優しく諭すように話を続けるのだった。
「さっき言った事がわかるかい?僕達は夫婦という立場にだけはなった事がないんだ。恋人同士という立場になったことは一度だけあるけど、それは歴史上とても厳しい時代背景の元で、その時は二人共戦争によって命を奪われている。僕達は異星人の原子の元に地球人のDNAを持つことは出来るが、セックスは出来ない。子供は作れないんだ。君は胎内に地球人の精子を宿し、地球人を生むことは出来る。然し我々の間では地球人の子供は生まれない。二人共元は火星人だからね。僕達が持つ異星人の原子が地球人のDNAを上回って異形のものが生まれてしまう。」
私はまだ混乱していたが彼‥お兄ちゃんの穏やかな口調に次第に気持ちが解れ心が静まるのを感じた。そしてあくまで地球人らしく、自分の思いを言葉にして表す。
「あなたのこと何と呼べばいいの?パル‥?それとも誠一郎?」
「今まで通り君は僕のことのお兄ちゃんと呼ぶんだよ、絶対に‥」
「あなたには異星人としての記憶というか意識があるけど、私には全く無い。それは何故?その通信機能があれば、私も自分が異星人だと自覚出来るの?自覚することがあるの?私が何度も生まれ変わってきた、いわば前世の記憶まで思い出すことが出来るの?それについさっきまで私と話してたというか、私の頭に直接話しかけていた、あなたがギリと呼んでいたあの声の主は何者?」
するとパルは私の立て続けの質問に臆する事なく、穏やかに答えた。
「ギリは我々のリーダー、この星を守るいわば総司令官といったところかな。」
「リーダー‥」
「そうだ。あの閃光を見た火星人は勿論君だけじゃない。彼は地球人として生きる火星人の原子を持ち君のように通信機能を持たない、つまり記憶のない火星人型人間に直接テレパシーで話しかけていた。君もその中の一人なんだ。そして‥彼はこの星を守るという使命を果たした。その為に、ギリ自身の原子は消滅してしまったが‥」
「消滅?それはどういうこと?」
あの恐ろしいエネルギーは我々が消滅させると確かに謎の声は言ったが‥でもいくら異星人でもそのようなことが本当に可能なのか‥そんな私の疑念を汲み取ったのか、パルこと誠一郎はとてつもないことをこれまたさらりと言ってのけるのだった。
「勿論核のエネルギーは地球に落とさせないにしても、宇宙空間にも発散させるわけにもいかない。もしそんな事をしたら、宇宙空間にどんな影響があるかわからないからね。生物が生息している星にもどんな被害が及ぶか‥だから彼が時空を越えてブラックホール、いわば宇宙のゴミ捨て場に命がけで捨てに行ったんだ。」
「えっ‥まさか‥」
「ブラックホールだよ、命がけでというより命を捨てて核のエネルギーをそこに‥宇宙自体に影響が及ばない場所に‥」
「そこまでして地球を救ってくれたの?」
「そうだよ、勿論ギリも無事に戻っては来れない。原子体としてのギリはブラックホールで消滅してしまうだろう。それはこの地球上で言うところのいわば死を意味する。」
「死‥?あの声の主、ギリっていう彼は死んでしまったということなの?」
唖然とする私に、パルは幾分かの腹立たしさを込めて答えた。
「そうだ。地球上ではそういう言い方をする。勿論地球人の愚かな行為を命を捨ててまで止める必要はないと、そう主張する我々の仲間は多い。もう、見捨てるべきだと‥僕だってそう思った。だが曾て我々火星人がそうだったように、生命体が生息可能な星の環境の元進化し、その文明を発展させていく過程において進化すればする程その‥驕りといった感情‥自己中心的な考えが一部の生命体には生まれてくるものなのだ。その結果、必ず争いが起きる。奇跡的な確率で生まれた生き物が生きていけるこの貴重な安息の地なのに大切にするという意識もなく、自ら汚し傷つけようとする。愚かなことだが‥」
「地球人が‥」
「そう‥地球人が滅んでも自業自得で仕方のないことなのだが然し‥地球は火星と同じ太陽系の星、いわば同胞のような存在だ。そして火星に住むことが出来なくなった我々は宇宙に旅立つことになり、その時我々はまだ命が誕生する前の赤子のような星である地球に命が根付く事を予期して命の種を残していった。ギリに聞いただろう?この星には君もその中の一人だが、我々の仲間がいるのだ。だから見捨てる訳にはいかない。救わねばならなかった。」
「でも‥命を捨ててまで‥」
先程まだ話していたギリがもういないと思うと、私は彼にとても済まない気持ちになり思わず声を詰まらせた。
「命を捨ててまで‥地球の為に‥」
「心配しなくてもいい。地球で言う死とは加齢や病気で生命体の一切の機能が停止し復元が不可能なことを指すが、我々の原子体は消滅しても又復元出来る。つまりギリの原子体は又作り直せるのだ。」
「えっ‥つまりクローン?それともギリの双子を作れるという事?」
淡々としたパルの言葉に私は拍子抜けして呆気に取られながら尋ねた。するとパルはそんな私の姿を見て、やっと人間らしい笑顔を見せてくれたのだった。
「パル‥?」
「クローンか‥確かにギリのような重大な使命を果たした存在は、復活する権利を有する。それを行使するかどうかは本人が決めることだが‥」
「ギリは復活を望んでないことも有り得るの?」
パルは私のその質問には答えず、遠くを見るような眼差しで静かに口を開いた。
「それは私にはわからない。ああ、これから先は君を地球人名でいう亜希子と呼ぶね。その方が君にもしっくりくると思うから‥」
パルは優しく頷くと、私を初めて地球人の名前の亜希子と呼んでくれた。だがその名前は、今の私には全く聞き覚えのないものだった。
「亜希子‥君の名は日野亜希子、僕の名は村岡誠一郎‥それが地球人としての僕達の名前だ。君は普通のサラリーマンであるご主人と恋愛結婚して二人の子供を儲けた。長男は悟、長女は理恵‥中学三年と一年で核ミサイルのボタンが押されたのは、そんな普通の家族が当たり前に過ごしていた日常のひとコマ‥丁度朝食時だった。自暴自棄になった独裁者の暴挙が、穏やかに過ごしていた多くの地球人から平穏な日常を奪ったんだ。」
パルは核ミサイルを押した独裁者への怒りを露わにしながら話を続けるのだった。
「そいつはやけになったんだ。その国は世界中のどの国からも相手にされなくなり、世界の公的機関から課された制裁で国内では色々なものが手に入らなくなった。国民を飢えさせても独裁者でいたかったそいつは次第に孤立し、自分の側近からも離反の動きが相次いだ。そいつは核保有国になることで自分の立場を世界中に認めさせようと目論んだが、悉くうまくいかなかった。今時を止めて火星人としての君に直接話しているが、ここで時間が再び動き出したら、君は又普通の日本人の主婦日野亜希子に戻る。僕との会話も記憶に残らないことになる。だから今、敢えて君に話した。君の原子に僕と同じ通信機能を持たせて、僕と同じ火星人としての意識を残したいのか、迷ったが君に選ばせる為に‥」
「私に‥選ばせる‥」
どういうこと?言ってる意味がわからず戸惑う私に、パルは優しい口調だがそれでもしっかり究極の選択を迫るのだった。
「地球人名は誠一郎だが、僕は異星人の仲間からはパルと呼ばれている。君にもやはり火星人の名前があるんだ。それを教えるかどうかは、今君の選択にかかっている。つまりこのまま記憶を戻してギリが言った事も僕の話も君の記憶から消し去り、核戦争の危機が我々の力で取り除かれた事も忘れて、このまま地球人としての意識だけを持って生きていくか、それとも僕と同じように原子体に通信機能を埋め込んで、火星人としての意識を持ち合わせて生きていくか、亜希子‥それを今、君自身で選んで欲しいということだ‥」
「私が‥?どうすればいいの?」
戸惑いつつも続ける。
「それは火星人としての名前を私が知りたいかということ?私があなたと同じ立場になったら知ることになる。つまり‥そういう事なのね。」
「ああ、よくわかってる。やはり君は僕達の仲間だ。」
パルはしっかり頷いて答えたが、私はいくら肯定されてもやはり信じられるものではなかった。それでも納得しなければならない。今の状況が彼の話が事実である事を何よりも証明している。だがそうすぐに答えが出るものではない。戸惑うばかりの私にお兄ちゃんである誠一郎は静かに目を閉じると、遠い昔に思いを馳せるように私にある種の思念を送った。すると不思議なことに私の脳裏には古代からの様々な人生が浮かび、その都度生きてきた私の前世の記憶が鮮やかに蘇ってくるのだった。
「これは‥」
驚く私に、パルは静かに語りかける。
「亜希子‥今君が見ているのは、君の原子に刻まれた地球人として何度も生まれ変わって送ったその人生の全ての記憶だ。僕は、君の前世の記憶を開放することが出来る。思い出したかい?平安時代では君は有能な女官であり、鎌倉時代では平凡な農婦だった。だがそれも途中までで、結局戦に巻き込まれて殺されている。戦国時代は‥有力大名の家臣の娘に生まれたが、夫の戦死で出家して尼となって生涯を閉じた。江戸時代は平凡な町娘だな。だが商才に長けて嫁いだ先で夫を助けて家を切り盛りしている。」
「まあ‥」
今の私には驚きしかなかったが、確かに彼の話した通りの人生がその時何を思ってどう生きてきたのか、何故かしっかり思い出すことが出来るのだ。更に彼は戸惑う私に構わず、話を続けるのだった
「時代は明治‥君は日本初の女子大に通い、卒業した後教師となっている。教職に就き教育に身を捧げた君は、恋愛も経験し一時仕事を辞めて家庭に入るか思い悩んだが結局結婚を諦め一生独身を通した。その後太平洋戦争では犠牲になってるな、空襲で‥そして今、令和の時代に生きる君や僕の人生の途上で、我々が最も恐れていた事が起きたんだ。」
「核戦争が‥始まろうとした‥」
「そうだ。皮肉なことに人間がどんなに愚かな生き物か、最新科学が発達した今現代で証明されようとしたのだ。」
そこまで言うと彼は、これ以上ないぐらい悲しげな表情を見せるのだった。更に彼は強い口調で、私に思いがけない事を告げる。
彼は私に更なる選択を迫った。
「我々は一度は地球人を助けた。大きな犠牲が払ったが‥だが二度とは助けない。もうこの星を見守るのを止めて、この星から離れようと思う。仲間からそういう結論に達したという連絡がきたんだ。だから我々の仲間である君達、地球型火星人に意志は確認する必要があったんだ。その為に今、君に全てを話した。」
「えっ‥どういうこと?」
いきなりそんな事を言われても‥パルこと誠一郎が言っている話の意味がわからず、私は混乱して聞き返す。だが、本当はわかっていたのだ。私の中にある異星人としての原子体が、既に理解していたというより出来ていた。彼等は今核戦争を引き起こそうとした地球人に怒り、地球を見捨てようとしている。
きっとそういうことなのだ。だからこの星に永遠に別れを告げようとしている今、元々自分達と同じ仲間の火星人の原子を持つ百数十名の人間に、このまま地球人として生きるのかそれとも原子体に戻って異星人として彼等と共に宇宙を旅するのか自分で選ぶようにということなのだろう。何故そこまで考える事が出来たのかわからないが、私にはパルの言わんとすることが手に取るように理解出来た。パルや、ギリが言う通りやっぱり私はこの星の住人ではない、異星人なのだ。途切れ途切れの記憶しか無いが‥するとパルは私の思いがわかるのかやはり悲しげな表情で何も言わずに頷いた。そして静かに口を開く。
「君が考えてる通りだ。火星が最早安住の地になる見込みが無い以上、我々は二度と帰らない決意で旅立たねばならない。今の君は僕と同じ立場だ。通信装置を外し今まで繰り返してきた人として生きた人生の記憶を全て消し去って、このまま地球人として生きていくか、それとも彼等と共に安住の地を求めて旅立つか、君は僕と同じように選ばなければならない。」
「このままじゃ駄目なの?このままじゃ‥」
溢れる思いより先に私は声が出ていた。まだ自分が彼等と同じ異星人とは信じられなかったが、それでも彼等‥そしてパルにもいなくなってほしくなかった。私は思わずパルに、そしてテレパシーでしか語りかけられない存在である遠くの仲間に向かって訴えていた。
「パル、あなたの仲間は今何処にいるの。みんないずれ火星が昔のように住める‥ようになったら、火星に戻ろうと思っていたのでしょう?そして兄弟星ともいえる地球を愛してくれていた。地球人の進化を見越し命の種を植え付けて‥平和な発展を願って見守ってた‥そんな優しい目を裏切って核戦争を起こそうとした地球人は、本当に愚かでどうしようもない存在だと思う。でも、地球人全てが愚かなことをしようとした訳じゃない。一日一日をただひたすら懸命に生きている人が殆どなのよ。それでも一部の愚か過ぎる人々の行動によって争いは起きてしまうものなの。お願いだから今まで通り見守っていてくれる訳にはいかないの?」
地球人であり異星人でもある私が心から訴えたその言葉にパルは‥そして地球を核戦争から救ってくれた仲間は冷たく言い放つ。
「駄目だ、これはもう決まったことなのだ。我々の仲間は宇宙を旅しながら我々の故郷である火星‥そして生まれたばかりの地球人の未来をずっと案じてきた。だが地球人は我々の思いを裏切り、やはり過ちを犯してしまった。」
「パル‥?」
そこで不思議な事に私は気付いた。パルの声が二重に聞こえる。パルの言い方も先程までのように親しかったお兄ちゃんらしい言い方ではなく、その前に話していたギリの時と同じ言い方になっていた。
「もしや‥」私は思った。二重に聞こえる声は火星人の仲間の声?彼等はパルの口を借りて私や同じ立場にいるという百数十名の火星生まれの地球人と直接話しているのではないか‥するとパルは私の考えていることがわかったらしく、いきなり頷いて答える。
「その通りだ。我々は今地球で生きてきた仲間でもある君達に、究極の選択を迫っている。我々は我々が生きていける科学の粋を極めた宇宙船で宇宙を旅していて、安住の地をずっと探し続けてきた。だがわざわざ定住しなくても我々は今の状態を続けていられる。それだけの科学力もある。このままこの船で宇宙を旅し続けても、全く支障は無いのだ。我々は寧ろ今、その方がいいとさえ考えている。」
「えっ‥」
それはどういう事?もう地球を見限ってしまうということなのか?そして地球で暮らす仲間にこのまま地球人として生きるのか、火星人として仲間の元に戻るのか自分達で判断するようにと‥するとパルは突然誠一郎に戻り人間らしい笑みを見せると、私を亜希子と地球人の名前で呼んで、彼等が言わんとする事の意味を教えてくれたのだった。
「亜希子‥僕達は地球人愚かだと言ったが、愚かなのは決して地球人だけではない。地球のように折角命が育まれる奇跡的な環境に恵まれながら、争いが起こり憎み合うことを止められず、戦争で自滅していった星を僕達は今まで沢山見てきたんだ。どれだけそんな星があったか僕は直接見聞きしてきたわけでは無いが、仲間とは必ず連絡を取り合ってきたからね。だから言えることなんだ。みんな辟易している‥何故自分達の故郷で穏やかに生きていけることに感謝しないのか‥命の危険もなく住み続けられることを有り難いと思わないのかと‥その上今までずっと見守ってきた地球まで、地球人まで、同じような過ちを‥」
「お兄ちゃん‥」
パルは悲愴な表情を滲ませながら続ける。
「だから我々は、もうこの星から本格的に離れようとしている。原子体に戻れば君も僕もその宇宙船で、火星生まれの異星人として生きていくことになる。ただ、地球人のように死そのものが無いけどね。ただそこには一切の争いが無く、穏やかで平穏な日々が待っている。」
「異星人として‥生きる‥」
当然のことだが火星人としての記憶など全く無い私に、実感がわく筈もなかった。戸惑うばかりの私に、パルは優しく話を続ける。
「僕達の原子体は永遠に滅びない。故障することはあるが、それはその部分を組み換えればいいだけだ。地球の為にブラックホールに消えたパルもそうすれば復活出来る。」
「組み替える?あなた方はロボットなの?
私の問にパルは淡々と答える。
「ある意味地球人の視点で見れば、そう見えるのかもしれないね。僕達は故郷を旅立った遠い昔から、退化した細胞を新しい原子に作り替えて生き続けてきたからね。だが我々には、地球人以上に深い感情があり傷付く心もある。悲しみや虚しさ‥地球上でそう表現出来る言葉は、決してロボットには無いものだ。」
「傷付く心は地球人にだってある。地球人だってロボットじゃない!」
思わず反論する私に、パルはあくまで冷静に言い放つ。
「人間をロボットのように支配しようとする連中がいるじゃないか?そんな連中がいる限り、この星は永久に救われない。独裁者は絶える事なくこの星に出現する。彼等は一切他人の傷みを思いやる事なく、自分の支配を正当化しようと多くの人間をロボットのように扱い苦しめ続ける‥」
「確かに‥そうかもしれない‥」
私は下を向くしかなかった。そして静かに口を開く。
「あなたは私にどうするか決めろと言ってるのね。わからない‥わからないわ。地球の平和な未来を願ったあなた方の期待を、地球人は結果的に裏切ってしまったことになる。それは本当に済まないことだし、あなた方が怒るのも当然だわ。でも私は、自分が本当は異星人だと言われても困るだけなの。この星を心から愛しているから‥どんな事があってもこの星を離れようとは思わない。絶対に‥」
私は心を込めて必死にパルに訴えた。そしていつしか、自分の目に涙が浮かんでいるのを感じた。地球人だからこそこの涙は溢れるのだ。絶対にこの星を離れることは出来ない!彼等に見捨てられても当然の愚かなことを地球人はしてしまったが、それでもこの星は私の故郷‥火星ではない、この地球こそ私の故郷なのだ。懸命に訴える私の姿にパルはため息をつくと、ゆっくり口を開いた。
「やっぱりね‥」
「やっぱり?」
「そう‥君と同じ立場の地球育ちの火星人は、みんなそう訴えてる。君もそうだ。母星といっても火星人であった記憶も無いのに今更異星人として宇宙に旅立つなど、みんな出来る筈も無いんだ。」
「パル‥」
予期してた通りの反応を見せた私にパルこと誠一郎は呟くように言うと、その後何故か寂しげな表情を見せた。パルは一体どうするのだろうか‥私は勿論気になったが、彼の気持ちを知るのが怖いような気がしてどうしても訊く事が出来なかった。そんな私にパルこと誠一郎は暫く沈黙していたが、やがて踏ん切りをつけたように強い口調で口を開く。
「わかった‥仲間にはそう伝えよう。君と同じ立場の地球育ちの火星人も、きっと殆ど君と同じ選択をするだろう。君はこれからも異星人の命の種を持ち続けたまま、地球人として生き続けることになる。だが僕は、君と違って火星人の意識を持ったまま生き続けなければならない。ぼくが持つ通信装置は簡単には外す事は出来ない。仲間に外してもらわねばならないが、彼等はしてくれないだろう。仲間の安否は彼等とて気になる筈だからね。だからこれからもずっと、今までのように僕は永遠に君を見守り続けることになる。」
「見守り続ける?それじゃパル、ううん、お兄ちゃん!お兄ちゃんも地球に残ってくれるの?」
今まで通りパルをお兄ちゃんとして接する事が出来る。私は一筋の希望を抱いたが、パルの表情は暗いままだった。
「お兄ちゃん‥?」
「あっ‥ううん、僕も地球に残ることになる。僕には仲間から託された使命があるからね。でも、これからも君と僕は生まれ変わりながら永遠の巡り合いが続くのだと思うと、何か虚しい気持ちにもなってね。仲の良い知り合いであったり、時には大切な肉視でもあり、又今回のように頼りになるお兄ちゃんにもなる。だが、それ以上でも以下にもならない。僕と亜希子‥パルとレアの間には‥」
「レア‥それが異星人としての私と名前なのね。でも私には、異星人としての記憶は無い。パルは、巡り合ってももう今回のように語ってくれた事実を私に話すことはないの?」
「それは僕達には許されていない。時を止めている今の空間だからこそ話せることだ。緊急事態だったからね。でも時が動き出せば君は僕から聞いたことを全て忘れ、僕をいつものように頼りになるお兄ちゃんとしてしか見ないだろう。」
「パル‥あなたはそれでいいのね?」
パルこと誠一郎は、私の問に強い口調で答える。
「構わない!連絡こそ取れるが、彼等はもうこの星には戻って来ないんだ!僕達はこれから、異星人ではなく気持ちの上でも地球人としてしっかり生きていく。その為に僕は僕でけじめをつけたかったんだ‥」
「お兄ちゃん‥」
パルの口調の激しさに私は戸惑ったが、彼は彼なりに心の葛藤があることを同時に痛い程理解することが出来た。異星人の意識があるまま、パルはこれからも地球人として生きていかなければならないのだ。それがどんなに苦しく辛いことなのか、彼の気持ちがわかるだけに私は言うべき言葉が見つからなかった。暫く沈黙が続いた後、気持ちの整理がついたのかパルこと誠一郎は再び口を開くとこれからのことを静かに語り始めた。
「永遠の巡り合いが始まるんだね。これからも‥君と僕‥パルとレアの‥」
「お兄ちゃん‥」
「僕には、何度も生まれ変わってきた君の様々な時代の姿が思い出されて‥火星人の原子体には、地球上でいう男女のような性の区別は無い。原子体と原子体の結合によって新しい命の種ともいうべき結合体は生み出されるが、そこには地球上でいう結婚に至るような相思相愛のラブ‥つまり愛情といった感情は生まれない。勿論仲間を大切に思う気持ちはあるが、好きといった感情ではない。だが僕達は違う。少なくとも地球人として生きてきた僕達には、当然のように地球人が抱く愛情が生まれるもの、生まれて当然なんだ。」
「お兄ちゃん‥」
レアである私を見つめる彼の目は、何故かひどく寂しげで切ないものだった。私は自然に記憶の奥底にある筈の、いつも自分を見守ってくれていた誰かの存在を何とか思い出そうとしていた。
ある時は兄、ある時は幼馴染み、そしてある時は‥とにかくいつの時代も、姿を見ただけで安心して笑顔を見せる事が出来る存在があったのだ。あれがパルだったのだろうか‥
「レア‥」
ふとお兄ちゃんが私を異星人の名前で呼んだ。そして私もパルを見る。不思議なことに異星人の名前で呼ばれても全く違和感は無かった。パルは気を取り直すように、そして又自分を励ますように言葉を繋いだ。
「僕達はこのまま地球人として生きていく。地球には僕達と同じ立場の人間もいるが、彼らと触れ合っても君は気付く事は出来ない。僕にはわかるが‥そして僕は、これからも君が生まれ変わる度に君のすぐ近くで君を見守っていくんだ。今までと同じように‥」
「パル‥」
「時が再び動き出せば、今の会話の全てが君の頭から消えることになる。それでも君は、僕にとって大切な人だ。恐らく今地球上にいる我々の仲間の誰よりも‥」
「お兄ちゃん‥」
私を見るパルの目は、益々寂しげに見えた。然し自分の心を奮い立たせるようにパルは語り続ける。
「これが多分地球人が抱くラブ‥愛情といった感情なのだろう。それだけ僕は、地球人に溶け込んできたということかな。僕はずっと君を好きだった。何千年も何百年も君を見続けてきて、この感情を抱くようになった。だがそれは、異星人として生きていく為にはある意味不必要な思い‥持つべきものではなかったんだ。仲間からもそう言われた。完璧に地球人として生きていける君達と違って、僕達は絶対に地球人ソノモノにはなれないのだから余計な感情は抱くなと‥でも気持ちは抑えられない‥これからもこの気持ちを抱いたまま、僕は君レアとの永遠の巡りあいを続け無けならない。そう考えると虚しさもあるが、どうすることも出来ない‥」
「パル‥」
私にはその時漸くパルの寂しげな表情の意味がわかったような気がした。同時にパルが私に抱いていたのと同じ思いを、間違いなく私もパルに抱いていることを自覚していた。この出来事が起きた時、最初に聞いたあのギリの声とは別にパルの存在を意識した時から、私には何故か不思議な程の安堵感あったのだ。私も確かにパルに好意を寄せている。今まで幾度となく繰り返されてきた巡りあいの中で、ずっと彼を愛し続けてきたのだ。たとえ完全に思い出せなくても‥これまで通り地球人としていくという彼の決意を知って嬉しく思ったのは、やはり、否絶対に彼と離れたくなかったからなのだ。
「お兄ちゃん‥」
ふと見るとパルは、何故か目を閉じて微動だにしない。私は不安に駆られたが、黙って待つしかなかった。暫くそのまま目を閉じていたパルは、漸く目を開けると静かに口をした。
「今、仲間に僕達の意志を伝えた。僕達の仲間は太陽系から永久に去り、二度と僕達の所へは戻って来ないそうだ。仲間の落胆ぶりは理解出来る。彼らが落ち込むのは当然なんだ。彼らは遠い昔火星を去る時、いずれ故郷に戻って来れる日がくるように、そしてまだ生命が生まれたばかりの地球を見守る為にもこの星に生命の種を残して旅立ったんだ。それなのに‥地球人は自我に固執し自分達の科学力におぼれ、自滅の道を辿ろうとした。仲間が怒るのも無理はない。」
「もう二度と来てくれないの。地球人にも素晴らしい人達は沢山いるわ!そんな人達が正当な手段で力を得て秩序を保てば、真の平和を取り戻せるかもしれないのに」
「無理だ‥もう時間切れだ‥」
パルは私の言葉に即答すると、名残惜しそうにゆっくり口を開いた。
「時間だ‥時を戻さなければならない‥」
「時間を‥戻す?」
何もかもが静止している世界で、私は二人だけが言葉を交わしているような気がしていたが、現実ではこの星で火星の原子を持つ者同士が思いも寄らない事態に直面したこの星の未来に自分達で未来を重ね合わせ、自分達はどんな道を選ぶのか‥大切な話し合いはそれぞれ続いていたのだ。勿論私は自分とパルの事しか頭になかったが‥そんな掛け替えのない時間が終わろうとしている‥私は堪らない気持ちになり、縋るような目でお兄ちゃんを見て訴えた。
「時間を戻したら、私は今あった事を全て忘れてしまうんでしょう?ギリのこともあなたがパルであることも‥あなたはそのままなのに‥そして私は、これから地球人そのものになって生きていくの?あなたのことも私が本当は火星人の原子体を持つ異星人であることも、そして地球の危機をギリが命を捨ててまで救ってくれたことも何もかも忘れてしまうの?」
覚えていたい。少なくとも何度も生まれ変わりながらその度に自分を見守ってくれてきたパルの存在だけでも‥
忘れたくないのだ。私は心から願い、パルの存在だけでも記憶から消さないでくれと必死に訴えた。だがパルは、そんな私に悲しそうな表情のまま首を横に振るだけだった。暫くして気を取り直したのか、涙を浮かべる私を励ますようにお兄ちゃんは明るい声で口を開いた。それは同時に自分を奮い立たせるようにも思えた。
「いいかい?これは決して別れじゃないんだよ。これからも君と僕は会えるんだ。この先繰り返されるそれぞれの人生で、何度も巡り会うことになる。これは新たなる人生の始まりなんだ。君の今の記憶は無くなるが、君を見守る僕という存在は必ず感じ取れるようになる。」
「それは本当なの?記憶が消えても‥?」
「ああ、僕はいつでも君のそばにいる。だから心配しないで‥さよなら、レアである君とはもうお別れだ‥もうレアとは呼べない‥」
「お兄ちゃん!」
パルの声を聞きながら私は周囲を白い霧のようなものが覆うのがわかった。
「これは‥」
意識があるのはそこまでだった。パルの姿が次第に薄れ、見えなくなったかと思うと次の瞬間‥その時はいきなりきた‥
「お母さん、何してるの?お弁当早く!学校に遅れちゃう!」
娘の理恵の声がぼんやり突っ立ってる亜希子を急かす。
「えっええ‥ごめんなさい‥」
「どうしたんだ?ぼんやりして‥」
「いえ、何でもないわ‥お弁当ね!はい!」
出勤の身支度で忙しそうな夫の正史が声をかけるが、それまでの出来事が全て記憶から消し去られている亜希子はすぐに平凡な主婦としての日常を取り戻し、いつものように朝の食卓を忙しく動き回るのだった。
5
私は死んだ。間違いなくそう思った。何気なく見上げた空に一筋の閃光を見た時、恐れていたものが私の住むこの街の頭上で牙を剥いたのを私は悟った。
(終わった‥)
私は目を閉じ、静かにその時が訪れるのを待った。爆風があらゆるものを破壊し尽くし、この身体は数千度の熱線に溶かされる‥
(苦しくありませんように‥安らかに死ねますように‥)
恐怖の瞬間を前にそれでも心の中で祈らずにはおれない。だが核兵器が頭上で炸裂してしまった以上、穏やかな死などあり得ない事だった。広島、長崎の惨状は日本人なら誰でもが熟知している。あれから八十年近く経っている現在、核兵器の威力は実際に人々が暮らす世界に落とされたあの時よりも、格段に上がっている筈だった。
(許さない💢私達が何をしたというの?)
- 死への恐怖にさらされながら、私の心はそれでもこの事態を引き起こした当事者への怒りに打ち震えていた。彼等は世界のルールを無視し、核兵器やミサイルを開発しては実験を繰り返して全世界から嫌われていた。世界中から非難され制裁を受けていたその国は、絶対的な専制君主制を取る独裁軍事国家であり、そんな国が世界に受け入れられることなど普通考えられない。だがそんな国でも友好国は確かに存在し、そしてその友好国が影響力を行使した為に軍事国家の暴走はある程度抑えられていたともいえる。だがここ数年はその暴走が目に余るものとなり、友好国と見られていた国も次第に苛立ち冷たい視線を向けるまでになっていた‥その厄介な国が隣国といえる位置にある以上私も生活していて不安を感じない訳ではなかったが、それでもこの二十一世紀になった今になって、まさか現実に核戦争が勃発するなど思ってもみなかったのだ。
(私達は死ぬ‥でもあなた達も死ぬ‥そして大勢の人が死ぬ。たった一人の独裁者のせいで‥その男が支配する独裁国家が存在し続けた為に‥)
そこまで考えた時、私はふと穏やかな時がそのまま続いている事に気付き、死の苦しみを味わう事なく死んだという自覚も無いまま、もう天国にきたのかと思った。出来ればそうありたい。安らかな死を願っていた筈なのだが、まさか現実にそうなるとは思わなかった。だが‥何かがおかしい。確かにけたたましいサイレンの音と同時に核‥兵器なのかわからないものの恐ろしい飛来物の襲来を認識した筈なのだ。それらしい光も見た。同時にメディアからとも現実の世界からとも判別がつかない、沢山の悲鳴や叫び声も聞いた。だが、一瞬でここまで静まるものだろうか‥
混乱したまま直ぐに空を見る。炸裂した筈の核は?閃光は?やはり頭上に見える。たとえ時が止まってもあれが取り除かれない限り、死は免れないだろう。そんな絶望的な感情が頭に浮かんだ時だった。不意に頭の中に声が響いた。
(心配しなくてもいい。このエネルギーは我々が我々の力で消滅させる‥)
(えっ‥)
私は驚いて思わず周囲に目をやった。すると全てが止まってると思った風景のは中で、私を見つめる一人の人物の姿を見かけた。
[お兄ちゃん!]
一瞬夢かと思った。だがその人物筈の静止していない。私は驚いたものの同時にホッとし安堵したのだった。
私は訳が分からずに外に目をやり空にも目を向けた。するとそこには信じられない光景が広がっていた。恐怖に顔を歪め体を屈めてうずくまる人、ただ必死に逃げようとしている人、なす術もなく立ち尽くすだけの人もいた。だが、どう見ても彼等は全く動いていないのだ。そして私がそれまでいたと思われる家‥その室内には夫‥?息子‥?娘‥?つい先程まで同じ時を過ごしていたらしい家族と呼べる三人が、他の人達と同様恐怖の表情をしたままやはり立ち止まったまま動かない。私は混乱の坩堝に突き落とされた。同時に自分が何処の誰かも思い出せなくなったのだった。
(落ち着け、落ち着け‥これは夢、私は夢を見てるのよ!絶対そう‥)
だがいくら自分に言い聞かせても、状況は何も変わらなかった。そして私反省やっと気付いたのだ。
(時間が‥止まってるの?)
不思議なことに自分が誰なのかさえ俄に思い出せないのに、私はその人物を覚えていたのだ。その人物は本当の兄ではなく、確か従兄弟で兄のように慕っていた誠一郎だった。身なりからしてこの家の主婦という立場だったらしい自分なのに、その記憶も無いのに何故彼のことだけは覚えているのだろう。それとも自分はとっくに死んでしまって、これは死後の世界の出来事なのか?すると混乱し続ける私の頭の中に、謎の声が再び響いた。
(君は死んではいない。君は我々と同じ、地球で言うところの遺伝子を受け継いでいる我々の仲間なのだ‥)
(えっ‥)
謎の言葉は更に続く。
混乱しつつもその従兄弟の方へ目をやると、周囲のあらゆものが静止しているのに彼はただ笑顔でも頷くだけ‥だが謎の声は明らかに彼の声ではなかった。笑顔でも彼の口は閉じたままなのだ。
(あなたは誰?これは一体どうなっているの?)
当然のように沸く疑問を、私はその声にぶつけた。するとその重々しい口調の声は、直ぐにはとても信じられないことを、私に語り続けるのだった。
(我々は太古の昔、地球人が今火星と呼んでいるその星に住んでいた。地球人にとって我々は異星人だが、同時に太陽系の惑星に住む仲間でもあったのだ。地球よりかなり早く文明を極めた我々だったが、ある時環境の激変でかなり昔に火星は我々の住める星ではなくなった。我々は住める星を求めて、太陽系から旅立たねばならなくなった。)
声は語り続ける。
(地球はまだその時、今のように生物が生息出来る環境ではなかった。だが我々は故郷である火星は勿論、地球の事も決して忘れてはいなかった。離れていてもずっとこの星を見守っていた。いずれ火星、そして太陽系に戻りたいと願っていたから‥)
(そんな‥そんなSF信じられるわけが‥)
(ないか?ではお前が今見ている状況は一体何なのだ?夢だと思うのか?それともお前が思ってる通り、死後の世界の出来事だとでも言うのか?)
(だって、核が頭の上にあるのよ!そのエネルギーを吸収して地球上に全く被害を及ぼさないで消滅させるなんてそんなこと‥)
(我々には出来る‥)
(出来る?)
(ああ、今時間を止めてお前の頭に直接語りかけているのも我々だから出来ることだ。)
(それは‥テレパシー?あなたはもしかして、テレパシーで私の頭に直接語りかけてるの?私はあなた方と同じ?人間じゃないの?でも私は、確かにこの家の人間だった筈よ!母親?主婦?きっとそうよ!そんな立場の人間だった時の記憶は無いけど、私の今の姿はこの家の奥さんだった事を示してる。でも今の私はその時の記憶を思い出せない。だけど私は人間よ!怪我すれば赤い血が流れるし、病気にだってなる。なる筈よ!いきなりあなた方の仲間だなんて言われても‥)
(混乱するのも無理はない。君の身体の構造は殆ど人‥つまり地球人と変わりないからね。だが君の身体の根本にある原子とでも言うべきものは、我々が曾て太陽系を去る時残していった命のタネそのものなのだ。)
(命の‥タネ‥それは何なの?)
(詳しく説明する為には、君を我々の仲間であった時から過去を遡り記憶を甦らせなければならないが、今はそんな時間は無いのだ。でもそれが君自身にある限り、君は永遠に死ぬことはない。)
(命のタネ‥)
声は混乱しながらも自分が地球人だと主張する私の思いをあくまで否定し、諭すように穏やかな声ながらそれでいて信じ難い内容の話を語り続けるのだった。
(我々は地球でどんな生物が生まれてどんな進化を遂げても、その生物が穏やかに平穏に生きていけることを望んでいた。地球人が自らの力に奢る余り、争いで滅びるようなこと絶対に避けたかった。救いようのない未来になるのは、絶対に止めたかったんだ。だがこの星で初めて核兵器が使われた時、我々は止めることが出来なかった。)
(ヒロシマ‥ナガサキ‥)
あの惨状は日本人なら必ず記憶の奥底に留めている筈だ。そして声は静かに続けのだった。
(そうだ、でも三度目は許さない。我々が止める。だから今回は我々が助けるのだ。そして核のボタンを押した愚かな地球人、その存在は我々が駆逐する。地球上で生きる資格のない地球人だから我々が連れて行く。)
(連れて行く?)
(そうだ、それは我々が強制的に生まれ変わらせるということを意味する。牙を抜いた上で記憶を消し、この星に戻す。その後のことは我々は関知しない。今の地球の現状を思えば、駆逐すべき人間は決して一人ではないように思えるが、直接核戦争の引き金を引いた人間だけを、今は連れて行くことにしている。)
(どうして、どうしてあなた方はそんなに地球のことを思ってくれるの?核戦争を止めてその上引き金を引こうとした人間を排除しようとまでしてくれる‥何故?)
全てがあり得ない信じられない状況の中で、私自身自然にその話、そして謎の声との会話を受け入れ続けていることに我ながら驚いていた。それでも声の主である彼等の意図は、やっぱり聞かずにはおれなかった。声はそんな私の問いかけに静かに答える。
(我々が命の種を植え付けたのは君だけではない。全てのものが静止しているこの世界で、今君を笑顔で見つめているあの男も、君と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間であり、地球上には君と同じ火星人の明確な子孫である地球人が百数十名程いる。それだけではない。我々が植え付けた命の種は、人以外の生き物や植物にも影響を与えており、この星に生命が誕生したその時からこの星の発展を陰で支えてきたのだ。はっきり言うがこの星自体我々火星人にとって、子供のような存在なのだ。だから滅亡等絶対にさせない。我々が許さない、必ず止める‥止めてみせる‥)
(だけど、核兵器は一度ならず二度も使われてしまったわ。そして何の罪もない大勢の人達が死んだ‥)
そこまでこの星のことを思ってくれていたのなら何故その時、最初に使われる前に止めてくれなかったのだ。あの惨状を知っている日本人だからこそ、やはりその言葉は口をついて出る。すると声は、今度は少し厳しい響きをもって私に答えるのだった。
(地球人の科学力がどれだけ発達しようと、それを愚かな行為に利用するならその星自体見捨てられても仕方のないことだ。原子力を兵器として使うことを思いついた地球人が核兵器を生み出してしまった時、遥か遠い宇宙にあってその事実を知った我々は、地球人の愚かさに憤慨しもうこの星を見捨てようとまで思った。そして核兵器は初めてこの星に生きる人々の上に落とされ、数万もの人々が亡くなった。)
(私たち‥日本人‥)
(ああ‥殆どがそう‥ただ、地球人が核兵器という作り出してはならない最終兵器を使用して悲劇は起きたが、それは地球人同士が核兵器で殺し合い地球滅亡に至る最終戦争には繋がらなかった。我々はその事実を確認した上で、核兵器の真の恐ろしさを地球人が思い知るべきだったのだとそういう結論に達したのだ。)
(だからヒロシマ、ナガサキは見捨てたの)
(勘違いしてもらったら困る。核兵器を生み出してしまったのは地球人自身だ‥我々は地球人の知能の高さや科学力の進化のスピードを見るにつけ、こういう悲惨な事が起きるのではないかとずっと危惧していた。そして我々が危惧していた通り、地球人はいつしか地球の主のように振る舞いこの美しい星に生まれて生きていける喜びを忘れてしまっていた。そして驕り高ぶった彼等は、到頭踏み込んではならない領域に足を踏み入れてしまった。)
(地球人がいつか核兵器のような作ってはならない兵器を作って、殺し合いをする事がないように願ってた‥地球の未来を案じていたのね。)
(ああ、確かにその不安はずっとあった。知能の高さゆえに争いは起きるのかもしれないが、我々はそれでも地球人が自ら滅亡するような方向に進まない事を願ってたんだ。我々は我々が住める星を求めて宇宙を旅する中で、自らの過ちで滅亡に至ったそんな星を幾つか目にしてきた。決して多くはないが‥もしかして地球も同じ運命を辿るのではないかと、本当に心配していたんだ‥)
(地球も自らの力を過信するあまり滅んでしまった、愚かな星の一つになりかねないと‥)
(その通りだ。だから今度は我々が介入して核戦争は止める‥仲間の為にも‥)
(仲間?)
(ああ、君も仲間だ。君の中の原子は世界に散らばって人間として生きている百数十名の我々の仲間と同じ、つまり君達は我々と同じ命の種を宿している。仲間がいる以上我々はこの星を見捨てるわけにはいかない。)
(わからない、わからないわ!いきなりそんな、自分が人間でないと言われても‥だったら私は死なないの?)
私と謎の声との会話は永遠に続くかと思われた。だがその時だった。
(ギリ、後は私が彼女に話します。もうこれ以上時間を止めておく事は出來ません。行って下さい!)
突然全く別の声が、私と謎の声との会話に割り込んできた。
(えっ‥?)
だが割り込んできたのは声だけではなかった。次の瞬間従兄弟だと記憶していた筈のあのいつもお兄ちゃんと呼んでいたその男が私の目の前に立っていた。
「あっ、あなたは‥」
やっと声が出た。と同時に今まで自分に語りかけていた謎の声の存在が私の頭の中で消えたのを私ははっきり悟った。彼は混乱する私を前にゆっくり笑みを浮かべると、静かに口を開いた。だが彼が話すその内容は、今までの謎の声と同様やはり私にとってとても信じられないものだったのである。
「君と同じで、僕も地球人ではない。地球人のDNAはあるが、原子に戻れば君や今まで君と属にいうテレパシーで会話していたギリと同じ火星人だ。」
そこまで話すと彼はどこか懐かしそうな表情になり、私にとにかく座るように促すと話を続けた。考えてみれば、地球人の女性として生きてきた記憶を取り戻せないのにお兄ちゃんの事だけを覚えているのも不思議な話だった。その話はやはり信じられない内容だったが、それでいて潜在記憶があるのか、何故か心の片隅に受け入れる事が出来るようなそんな話だった。パル‥地球人の名前が誠一郎である彼は語る。
「僕の名はパル、君と会うのはううん、何度目だろう。数百回にもなるかな。」
「数百回?」
「ああ、君は地球人として太古の昔から何度も生まれ変わってきた。その都度僕は、君の近くでずっと君を見守ってきたんだ。そして今、やっとパルとして話せる。そんな状態になったのは、勿論核ミサイルのボタンが押されたせいだが‥」
「会うのは数百回、見守ってきた?どういうこと?第一あなたには異星人としての記憶があるようだけど、私には全く無いわ。あなた方が何と言おうと私はやっぱり地球人なのよ!絶対そうよ!」
「違う、君は間違いなく我々と同じ火星人の原子を持つ我々の仲間だ。」
「だったら、だったら何故‥?」
当然の疑問を投げかける私に、パルは根気強く話し続ける。その内容はどこまでも信じられないものだったが、私はもう否定しようとは思わなかったし正直する気ににもならなかった。あの頭上で炸裂する核爆弾の閃光を目にした時から、現実に彼等の話を受け入れない訳にはいかなくなったのだ。
何より地球を本当に核戦争の危機から救ってくれるなら有り難い事だし、だからこそそんな彼等の言うことには耳を傾けない訳にはいかない。私は今、確かにそんな気持ちになっていた。ただ、自分が地球人ではなく彼等と同じ異星人だという話はやはり受け入れる気持ちにはなれなかった。すると言葉にしなくともそんな私の思いが伝わるのか、彼は優しく声をかける。
「君と僕の記憶の違いは、この星が危機的状況に陥った時それを遠く離れた仲間に伝える為の通信機能をそれぞれの原子に埋め込まれているか否かによる。君の原子には埋め込まれていない。だから君は火星人の原子を持った上で地球人のDNAを持つ地球人として生まれた。だから地球人としての記憶しかないのだ。」
呆然とする私を前にお兄ちゃんの話は続く。
「そして地球人として一生を終え、我々と同じ原子を持ったまま再び地球人として生まれ変わる。君は地球人で言う女性、僕は男性として‥そして僕等は何千年もの人の歴史の中で、異なる人生を生きて何度も巡り合ってきた。ある時は兄妹、ある時は親子、ある時は恋人として‥そして今の君の人生では僕は頼りになる従兄弟‥一人っ子として生まれた君からは、お兄ちゃんと呼ばれ慕われてきた存在だ‥」
「お兄ちゃん‥」そうだ、その時私は、この非常事態が起きる前の平穏に暮らしていた頃の記憶が、一枚ずつベールが剥がれるように少しずつ戻ってくるのをはっきり感じていた。
私は日本という平和な国に生まれ育ったごく平凡な女性‥活発な方ではなく、どちらかと言えば大人しくて地味な性格でそれ相応に勉強も出来て普通に就職し恋愛も出来て結婚、出産‥母親になった。普通の人が辿るありきたりの人生を送ってきただけの、平凡な人間だった。
「そう、その通り‥だがそのありきたりの人生を送っていた普通の人々の当たり前の幸せが今壊されようとしていたのだ。」
彼は言葉にしなくても私の考えていることがわかるらしく、今起きている厳しい現実について私が何も言わなくてもすぐに言及した。その上で今度は私を優しく諭すように話を続けるのだった。
「さっき言った事がわかるかい?僕達は夫婦という立場にだけはなった事がないんだ。恋人同士という立場になったことは一度だけあるけど、それは歴史上とても厳しい時代背景の元で、その時は二人共戦争によって命を奪われている。僕達は異星人の原子の元に地球人のDNAを持つことは出来るが、セックスは出来ない。子供は作れないんだ。君は胎内に地球人の精子を宿し、地球人を生むことは出来る。然し我々の間では地球人の子供は生まれない。二人共元は火星人だからね。僕達が持つ異星人の原子が地球人のDNAを上回って異形のものが生まれてしまう。」
私はまだ混乱していたが彼‥お兄ちゃんの穏やかな口調に次第に気持ちが解れ心が静まるのを感じた。そしてあくまで地球人らしく、自分の思いを言葉にして表す。
「あなたのこと何と呼べばいいの?パル‥?それとも誠一郎?」
「今まで通り君は僕のことのお兄ちゃんと呼ぶんだよ、絶対に‥」
「あなたには異星人としての記憶というか意識があるけど、私には全く無い。それは何故?その通信機能があれば、私も自分が異星人だと自覚出来るの?自覚することがあるの?私が何度も生まれ変わってきた、いわば前世の記憶まで思い出すことが出来るの?それについさっきまで私と話してたというか、私の頭に直接話しかけていた、あなたがギリと呼んでいたあの声の主は何者?」
するとパルは私の立て続けの質問に臆する事なく、穏やかに答えた。
「ギリは我々のリーダー、この星を守るいわば総司令官といったところかな。」
「リーダー‥」
「そうだ。あの閃光を見た火星人は勿論君だけじゃない。彼は地球人として生きる火星人の原子を持ち君のように通信機能を持たない、つまり記憶のない火星人型人間に直接テレパシーで話しかけていた。君もその中の一人なんだ。そして‥彼はこの星を守るという使命を果たした。その為に、ギリ自身の原子は消滅してしまったが‥」
「消滅?それはどういうこと?」
あの恐ろしいエネルギーは我々が消滅させると確かに謎の声は言ったが‥でもいくら異星人でもそのようなことが本当に可能なのか‥そんな私の疑念を汲み取ったのか、パルこと誠一郎はとてつもないことをこれまたさらりと言ってのけるのだった。
「勿論核のエネルギーは地球に落とさせないにしても、宇宙空間にも発散させるわけにもいかない。もしそんな事をしたら、宇宙空間にどんな影響があるかわからないからね。生物が生息している星にもどんな被害が及ぶか‥だから彼が時空を越えてブラックホール、いわば宇宙のゴミ捨て場に命がけで捨てに行ったんだ。」
「えっ‥まさか‥」
「ブラックホールだよ、命がけでというより命を捨てて核のエネルギーをそこに‥宇宙自体に影響が及ばない場所に‥」
「そこまでして地球を救ってくれたの?」
「そうだよ、勿論ギリも無事に戻っては来れない。原子体としてのギリはブラックホールで消滅してしまうだろう。それはこの地球上で言うところのいわば死を意味する。」
「死‥?あの声の主、ギリっていう彼は死んでしまったということなの?」
唖然とする私に、パルは幾分かの腹立たしさを込めて答えた。
「そうだ。地球上ではそういう言い方をする。勿論地球人の愚かな行為を命を捨ててまで止める必要はないと、そう主張する我々の仲間は多い。もう、見捨てるべきだと‥僕だってそう思った。だが曾て我々火星人がそうだったように、生命体が生息可能な星の環境の元進化し、その文明を発展させていく過程において進化すればする程その‥驕りといった感情‥自己中心的な考えが一部の生命体には生まれてくるものなのだ。その結果、必ず争いが起きる。奇跡的な確率で生まれた生き物が生きていけるこの貴重な安息の地なのに大切にするという意識もなく、自ら汚し傷つけようとする。愚かなことだが‥」
「地球人が‥」
「そう‥地球人が滅んでも自業自得で仕方のないことなのだが然し‥地球は我々の故郷である火星と同じ太陽系の星、いわば同胞のような存在だ。そして火星に住むことが出来なくなった我々は宇宙に旅立つことになり、その時我々はまだ命が誕生する前の赤子のような星である地球に命が根付く事を予期して命の種を残していった。ギリに聞いただろう?この星には君もその中の一人だが、我々の仲間がいるのだ。だから見捨てる訳にはいかない。救わねばならなかった。」
「でも‥命を捨ててまで‥」
先程まだ話していたギリがもういないと思うと、私は彼にとても済まない気持ちになり思わず声を詰まらせた。
「命を捨ててまで‥地球の為に‥」。
「心配しなくてもいい。地球で言う死とは加齢や病気で生命体の一切の機能が停止し復元が不可能なことを指すが、我々の原子体は消滅しても又復元出来る。つまりギリの原子体は又作り直せるのだ。」
「えっ‥つまりクローン?それともギリの双子を作れるという事?」
淡々としたパルの言葉に私は拍子抜けして呆気に取られながら尋ねた。するとパルはそんな私の姿を見て、やっと人間らしい笑顔を見せてくれたのだった。
「パル‥?」
「クローンか‥確かにギリのような重大な使命を果たした存在は、復活する権利を有する。それを行使するかどうかは本人が決めることだが‥」
「ギリは復活を望んでないことも有り得るの?」
パルは私のその質問には答えず、遠くを見るような眼差しで静かに口を開いた。
「それは私にはわからない。ああ、これから先は君を地球人名でいう亜希子と呼ぶね。その方が君にもしっくりくると思うから‥」
パルは優しく頷くと、私を初めて地球人の名前の亜希子と呼んでくれた。だがその名前は、今の私には全く聞き覚えのないものだった。
「亜希子‥君の名は日野亜希子、僕の名は村岡誠一郎‥それが地球人としての僕達の名前だ。君は普通のサラリーマンであるご主人と恋愛結婚して二人の子供を儲けた。長男は悟、長女は理恵‥中学三年と一年で核ミサイルのボタンが押されたのは、そんな普通の家族が当たり前に過ごしていた日常のひとコマ‥丁度朝食時だった。自暴自棄になった独裁者の暴挙が、穏やかに過ごしていた多くの地球人から平穏な日常を奪ったんだ。」
パルは核ミサイルを押した独裁者への怒りを露わにしながら話を続けるのだった。
「そいつはやけになったんだ。その国は世界中のどの国からも相手にされなくなり、世界の公的機関から課された制裁で国内では色々なものが手に入らなくなった。国民を飢えさせても独裁者でいたかったそいつは次第に孤立し、自分の側近からも離反の動きが相次いだ。そいつは核保有国になることで自分の立場を世界中に認めさせようと目論んだが、悉くうまくいかなかった。今時を止めて火星人としての君に直接話しているが、ここで時間が再び動き出したら、君は又普通の日本人の主婦日野亜希子に戻る。僕との会話も記憶に残らないことになる。だから今、敢えて君に話した。君の原子に僕と同じ通信機能を持たせて、僕と同じ火星人としての意識を残したいのか、迷ったが君に選ばせる為に‥」
「私に‥選ばせる‥」
どういうこと?言ってる意味がわからず戸惑う私に、パルは優しい口調だがそれでもしっかり究極の選択を迫るのだった。
「地球人名は誠一郎だが、僕は異星人の仲間からはパルと呼ばれている。君にもやはり火星人の名前があるんだ。それを教えるかどうかは、今君の選択にかかっている。つまりこのまま記憶を戻してギリが言った事も僕の話も君の記憶から消し去り、核戦争の危機が我々の力で取り除かれた事も忘れて、このまま地球人としての意識だけを持って生きていくか、それとも僕と同じように原子体に通信機能を埋め込んで、火星人としての意識を持ち合わせて生きていくか、亜希子‥それを今、君自身で選んで欲しいということだ‥」
「私が‥?どうすればいいの?」
戸惑いつつも続ける。
「それは火星人としての名前を私が知りたいかということ?私があなたと同じ立場になったら知ることになる。つまり‥そういう事なのね。」
「ああ、よくわかってる。やはり君は僕達の仲間だ。」
パルはしっかり頷いて答えたが、私はいくら肯定されてもやはり信じられるものではなかった。それでも納得しなければならない。今の状況が彼の話が事実である事を何よりも証明している。だがそうすぐに答えが出るものではない。戸惑うばかりの私にお兄ちゃんである誠一郎は静かに目を閉じると、遠い昔に思いを馳せるように私にある種の思念を送った。すると不思議なことに私の脳裏には古代からの様々な人生が浮かび、その都度生きてきた私の前世の記憶が鮮やかに蘇ってくるのだった。
「これは‥」
驚く私に、パルは静かに語りかける。
「亜希子‥今君が見ているのは、君の原子に刻まれた地球人として何度も生まれ変わって送ったその人生の全ての記憶だ。僕は、君の前世の記憶を開放することが出来る。思い出したかい?平安時代では君は有能な女官であり、鎌倉時代では平凡な農婦だった。だがそれも途中までで、結局戦に巻き込まれて殺されている。戦国時代は‥有力大名の家臣の娘に生まれたが、夫の戦死で出家して尼となって生涯を閉じた。江戸時代は平凡な町娘だな。だが商才に長けて嫁いだ先で夫を助けて家を切り盛りしている。」
「まあ‥」
今の私には驚きしかなかったが、確かに彼の話した通りの人生がその時何を思ってどう生きてきたのか、何故かしっかり思い出すことが出来るのだ。更に彼は戸惑う私に構わず、話を続けるのだった。
「時代は明治‥君は日本初の女子大に通い、卒業した後教師となっている。教職に就き教育に身を捧げた君は、恋愛も経験し一時仕事を辞めて家庭に入るか思い悩んだが結局結婚を諦め一生独身を通した。その後太平洋戦争では犠牲になってるな、空襲で‥そして今、令和の時代に生きる君や僕の人生の途上で、我々が最も恐れていた事が起きたんだ。」
「核戦争が‥始まろうとした‥」
「そうだ。皮肉なことに人間がどんなに愚かな生き物か、最新科学が発達した今現代で証明されようとしたのだ。」
そこまで言うと彼は、これ以上ないぐらい悲しげな表情を見せるのだった。更に彼は強い口調で、私に思いがけない事を告げる。
彼は私に更なる選択を迫った。
「我々は一度は地球人を助けた。大きな犠牲が払ったが‥だが二度とは助けない。もうこの星を見守るのを止めて、この星から離れようと思う。仲間からそういう結論に達したという連絡がきたんだ。だから我々の仲間である君達、地球型火星人に意志は確認する必要があったんだ。その為に今、君に全てを話した。」
「えっ‥どういうこと?」
いきなりそんな事を言われても‥パルこと誠一郎が言っている話の意味がわからず、私は混乱して聞き返す。だが、本当はわかっていたのだ。私の中にある異星人としての原子体が、既に理解していたというより出来ていた。彼等は今核戦争を引き起こそうとした地球人に怒り、地球を見捨てようとしている。
きっとそういうことなのだ。だからこの星に永遠に別れを告げようとしている今、元々自分達と同じ仲間の火星人の原子を持つ百数十名の人間に、このまま地球人として生きるのかそれとも原子体に戻って異星人として彼等と共に宇宙を旅するのか自分で選ぶようにということなのだろう。何故そこまで考える事が出来たのかわからないが、私にはパルの言わんとすることが手に取るように理解出来た。パルや、ギリが言う通りやっぱり私はこの星の住人ではない、異星人なのだ。途切れ途切れの記憶しか無いが‥するとパルは私の思いがわかるのかやはり悲しげな表情で何も言わずに頷いた。そして静かに口を開く。
「君が考えてる通りだ。火星が最早安住の地になる見込みが無い以上、我々は二度と帰らない決意で旅立たねばならない。今の君は僕と同じ立場だ。通信装置を外し今まで繰り返してきた人として生きた人生の記憶を全て消し去って、このまま地球人として生きていくか、それとも彼等と共に安住の地を求めて旅立つか、君は僕と同じように選ばなければならない。」
「このままじゃ駄目なの?このままじゃ‥」
溢れる思いより先に私は声が出ていた。まだ自分が彼等と同じ異星人とは信じられなかったが、それでも彼等‥そしてパルにもいなくなってほしくなかった。私は思わずパルに、そしてテレパシーでしか語りかけられない存在である遠くの仲間に向かって訴えていた。
「パル、あなたの仲間は今何処にいるの。みんないずれ火星が昔のように住める‥ようになったら、火星に戻ろうと思っていたのでしょう?そして兄弟星ともいえる地球を愛してくれていた。地球人の進化を見越し命の種を植え付けて‥平和な発展を願って見守ってた‥そんな優しい目を裏切って核戦争を起こそうとした地球人は、本当に愚かでどうしようもない存在だと思う。でも、地球人全てが愚かなことをしようとした訳じゃない。一日一日をただひたすら懸命に生きている人が殆どなのよ。それでも一部の愚か過ぎる人々の行動によって争いは起きてしまうものなの。お願いだから今まで通り見守っていてくれる訳にはいかないの?」
地球人であり異星人でもある私が心から訴えたその言葉にパルは‥そして地球を核戦争から救ってくれた仲間は冷たく言い放つ。
「駄目だ、これはもう決まったことなのだ。我々の仲間は宇宙を旅しながら我々の故郷である火星‥そして生まれたばかりの地球人の未来をずっと案じてきた。だが地球人は我々の思いを裏切り、やはり過ちを犯してしまった。」
「パル‥?」
そこで不思議な事に私は気付いた。パルの声が二重に聞こえる。パルの言い方も先程までのように親しかったお兄ちゃんらしい言い方ではなく、その前に話していたギリの時と同じ言い方になっていた。
「もしや‥」私は思った。二重に聞こえる声は火星人の仲間の声?彼等はパルの口を借りて私や同じ立場にいるという百数十名の火星生まれの地球人と直接話しているのではないか‥するとパルは私の考えていることがわかったらしく、いきなり頷いて答える。
「その通りだ。我々は今地球で生きてきた仲間でもある君達に、究極の選択を迫っている。我々は我々が生きていける科学の粋を極めた宇宙船で宇宙を旅していて、安住の地をずっと探し続けてきた。だがわざわざ定住しなくても我々は今の状態を続けていられる。それだけの科学力もある。このままこの船で宇宙を旅し続けても、全く支障は無いのだ。我々は寧ろ今、その方がいいとさえ考えている。」
「えっ‥」
それはどういう事?もう地球を見限ってしまうということなのか?そして地球で暮らす仲間にこのまま地球人として生きるのか、火星人として仲間の元に戻るのか自分達で判断するようにと‥するとパルは突然誠一郎に戻り人間らしい笑みを見せると、私を亜希子と地球人の名前で呼んで、彼等が言わんとする事の意味を教えてくれたのだった。
「亜希子‥僕達は地球人愚かだと言ったが、愚かなのは決して地球人だけではない。地球のように折角命が育まれる奇跡的な環境に恵まれながら、争いが起こり憎み合うことを止められず、戦争で自滅していった星を僕達は今まで沢山見てきたんだ。どれだけそんな星があったか僕は直接見聞きしてきたわけでは無いが、仲間とは必ず連絡を取り合ってきたからね。だから言えることなんだ。みんな辟易している‥何故自分達の故郷で穏やかに生きていけることに感謝しないのか‥命の危険もなく住み続けられることを有り難いと思わないのかと‥その上今までずっと見守てきた地球まで、地球人まで、同じような過ちを‥」
「お兄ちゃん‥」
パルは悲愴な表情を滲ませながら続ける。
「だから我々は、もうこの星から本格的に離れようとしている。原子体に戻れば君も僕もその宇宙船で、火星生まれの異星人として生きていくことになる。ただ、地球人のように死そのものが無いけどね。ただそこには一切の争いが無く、穏やかで平穏な日々が待っている。」
「異星人として‥生きる‥」
当然のことだが火星人としての記憶など全く無い私に、実感がわく筈もなかった。戸惑うばかりの私に、パルは優しく話を続ける。
「僕達の原子体は永遠に滅びない。故障することはあるが、それはその部分を組み換えればいいだけだ。地球の為にブラックホールに消えたパルもそうすれば復活出来る。」
「組み替える?あなた方はロボットなの?」
私の問にパルは淡々と答える。
「ある意味地球人の視点で見れば、そう見えるのかもしれないね。僕達は故郷を旅立った遠い昔から、退化した細胞を新しい原子に作り替えて生き続けてきたからね。だが我々には、地球人以上に深い感情があり傷付く心もある。悲しみや虚しさ‥地球上でそう表現出来る言葉は、決してロボットには無いものだ。」
「傷付く心は地球人にだってある。地球人だってロボットじゃない!」
思わず反論する私に、パルはあくまで冷静に言い放つ。
「人間をロボットのように支配しようとする連中がいるじゃないか?そんな連中がいる限り、この星は永久に救われない。独裁者は絶える事なくこの星に出現する。彼等は一切他人の傷みを思いやる事なく、自分の支配を正当化しようと多くの人間をロボットのように扱い苦しめ続ける‥」
「確かに‥そうかもしれない‥」
私は下を向くしかなかった。そして静かに口を開く。
「あなたは私にどうするか決めろと言ってるのね。わからない‥わからないわ。地球の平和な未来を願ったあなた方の期待を、地球人は結果的に裏切ってしまったことになる。それは本当に済まないことだし、あなた方が怒るのも当然だわ。でも私は、自分が本当は異星人だと言われても困るだけなの。この星を心から愛しているから‥どんな事があってもこの星を離れようとは思わない。絶対に‥」
私は心を込めて必死にパルに訴えた。そしていつしか、自分の目に涙が浮かんでいるのを感じた。地球人だからこそこの涙は溢れるのだ。絶対にこの星を離れることは出来ない!彼等に見捨てられても当然の愚かなことを地球人はしてしまったが、それでもこの星は私の故郷‥火星ではない、この地球こそ私の故郷なのだ。懸命に訴える私の姿にパルはため息をつくと、ゆっくり口を開いた。
「やっぱりね‥」
「やっぱり?」
「そう‥君と同じ立場の地球育ちの火星人は、みんなそう訴えてる。君もそうだ。母星といっても火星人であった記憶も無いのに今更異星人として宇宙に旅立つなど、みんな出来る筈も無いんだ。」
「パル‥」
予期してた通りの反応を見せた私にパルこと誠一郎は呟くように言うと、その後何故か寂しげな表情を見せた。パルは一体どうするのだろうか‥私は勿論気になったが、彼の気持ちを知るのが怖いような気がしてどうしても訊く事が出来なかった。そんな私にパルこと誠一郎は暫く沈黙していたが、やがて踏ん切りをつけたように強い口調で口を開く。
「わかった‥仲間にはそう伝えよう。君と同じ立場の地球育ちの火星人も、きっと殆ど君と同じ選択をするだろう。君はこれからも異星人の命の種を持ち続けたまま、地球人として生き続けることになる。だが僕は、君と違って火星人の意識を持ったまま生き続けなければならない。ぼくが持つ通信装置は簡単には外す事は出来ない。仲間に外してもらわねばならないが、彼等はしてくれないだろう。仲間の安否は彼等とて気になる筈だからね。だからこれからもずっと、今までのように僕は永遠に君を見守り続けることになる。」
「見守り続ける?それじゃパル、ううん、お兄ちゃん!お兄ちゃんも地球に残ってくれるの?」
今まで通りパルをお兄ちゃんとして接する事が出来る。私は一筋の希望を抱いたが、パルの表情は暗いままだった。
「お兄ちゃん‥?」
「あっ‥ううん、僕も地球に残ることになる。僕には仲間から託された使命があるからね。でも、これからも君と僕は生まれ変わりながら永遠の巡り合いが続くのだと思うと、何か虚しい気持ちにもなってね。仲の良い知り合いであったり、時には大切な肉視でもあり、又今回のように頼りになるお兄ちゃんにもなる。だが、それ以上でも以下にもならない。僕と亜希子‥パルとレアの間には‥」
「レア‥それが異星人としての私と名前なのね。でも私には、異星人としての記憶は無い。パルは、巡り合ってももう今回のように語ってくれた事実を私に話すことはないの?」
「それは僕達には許されていない。時を止めている今の空間だからこそ話せることだ。緊急事態だったからね。でも時が動き出せば君は僕から聞いたことを全て忘れ、僕をいつものように頼りになるお兄ちゃんとしてしか見ないだろう。」
「パル‥あなたはそれでいいのね?」
パルこと誠一郎は、私の問に強い口調で答える。
「構わない!連絡こそ取れるが、彼等はもうこの星には戻って来ないんだ!僕達はこれから、異星人ではなく気持ちの上でも地球人としてしっかり生きていく。その為に僕は僕でけじめをつけたかったんだ‥」
「お兄ちゃん‥」
パルの口調の激しさに私は戸惑ったが、彼は彼なりに心の葛藤があることを同時に痛い程理解することが出来た。異星人の意識があるまま、パルはこれからも地球人として生きていかなければならないのだ。それがどんなに苦しく辛いことなのか、彼の気持ちがわかるだけに私は言うべき言葉が見つからなかった。暫く沈黙が続いた後、気持ちの整理がついたのかパルこと誠一郎は再び口を開くとこれからのことを静かに語り始めた。
「永遠の巡り合いが始まるんだね。これからも‥君と僕‥パルとレアの‥」
「お兄ちゃん‥」
「僕には、何度も生まれ変わってきた君の様々な時代の姿が思い出されて‥火星人の原子体には、地球上でいう男女のような性の区別は無い。原子体と原子体の結合によって新しい命の種ともいうべき結合体は生み出されるが、そこには地球上でいう結婚に至るような相思相愛のラブ‥つまり愛情といった感情は生まれない。勿論仲間を大切に思う気持ちはあるが、好きといった感情ではない。だが僕達は違う。少なくとも地球人として生きてきた僕達には、当然のように地球人が抱く愛情が生まれるもの、生まれて当然なんだ。」
「お兄ちゃん‥」
レアである私を見つめる彼の目は、何故かひどく寂しげで切ないものだった。私は自然に記憶の奥底にある筈の、いつも自分を見守ってくれていた誰かの存在を何とか思い出そうとしていた。
ある時は兄、ある時は幼馴染み、そしてある時は‥とにかくいつの時代も、姿を見ただけで安心して笑顔を見せる事が出来る存在があったのだ。あれがパルだったのだろうか‥
「レア‥」
ふとお兄ちゃんが私を異星人の名前で呼んだ。そして私もパルを見る。不思議なことに異星人の名前で呼ばれても全く違和感は無かった。パルは気を取り直すように、そして又自分を励ますように言葉を繋いだ。
「僕達はこのまま地球人として生きていく。地球には僕達と同じ立場の人間もいるが、彼らと触れ合っても君は気付く事は出来ない。僕にはわかるが‥そして僕は、これからも君が生まれ変わる度に君のすぐ近くで君を見守っていくんだ。今までと同じように‥」
「パル‥」
「時が再び動き出せば、今の会話の全てが君の頭から消えることになる。それでも君は、僕にとって大切な人だ。恐らく今地球上にいる我々の仲間の誰よりも‥」
「お兄ちゃん‥」
私を見るパルの目は、益々寂しげに見えた。然し自分の心を奮い立たせるようにパルは語り続ける。
「これが多分地球人が抱くラブ‥愛情といった感情なのだろう。それだけ僕は、地球人に溶け込んできたということかな。僕はずっと君を好きだった。何千年も何百年も君を見続けてきて、この感情を抱くようになった。だがそれは、異星人として生きていく為にはある意味不必要な思い‥持つべきものではなかったんだ。仲間からもそう言われた。完璧に地球人として生きていける君達と違って、僕達は絶対に地球人ソノモノにはなれないのだから余計な感情は抱くなと‥でも気持ちは抑えられない‥これからもこの気持ちを抱いたまま、僕は君レアとの永遠の巡りあいを続け無けならない。そう考えると虚しさもあるが、どうすることも出来ない‥」
「パル‥」
私にはその時漸くパルの寂しげな表情の意味がわかったような気がした。同時にパルが私に抱いていたのと同じ思いを、間違いなく私もパルに抱いていることを自覚していた。この出来事が起きた時、最初に聞いたあのギリの声とは別にパルの存在を意識した時から、私には何故か不思議な程の安堵感あったのだ。私も確かにパルに好意を寄せている。今まで幾度となく繰り返されてきた巡りあいの中で、ずっと彼を愛し続けてきたのだ。たとえ完全に思い出せなくても‥これまで通り地球人としていくという彼の決意を知って嬉しく思ったのは、やはり、否絶対に彼と離れたくなかったからなのだ。
「お兄ちゃん‥」
ふと見るとパルは、何故か目を閉じて微動だにしない。私は不安に駆られたが、黙って待つしかなかった。暫くそのまま目を閉じていたパルは、漸く目を開けると静かに口をした。
「今、仲間に僕達の意志を伝えた。僕達の仲間は太陽系から永久に去り、二度と僕達の所へは戻って来ないそうだ。仲間の落胆ぶりは理解出来る。彼らが落ち込むのは当然なんだ。彼らは遠い昔火星を去る時、いずれ故郷に戻って来れる日がくるように、そしてまだ生命が生まれたばかりの地球を見守る為にもこの星に生命の種を残して旅立ったんだ。それなのに‥地球人は自我に固執し自分達の科学力におぼれ、自滅の道を辿ろうとした。仲間が怒るのも無理はない。」
「もう二度と来てくれないの。地球人にも素晴らしい人達は沢山いるわ!そんな人達が正当な手段で力を得て秩序を保てば、真の平和を取り戻せるかもしれないのに」
「無理だ‥もう時間切れだ‥」
パルは私の言葉に即答すると、名残惜しそうにゆっくり口を開いた。
「時間だ‥時を戻さなければならない‥」
「時間を‥戻す?」
何もかもが静止している世界で、私は二人だけが言葉を交わしているような気がしていたが、現実ではこの星で火星の原子を持つ者同士が思いも寄らない事態に直面したこの星の未来に自分達で未来を重ね合わせ、自分達はどんな道を選ぶのか‥大切な話し合いはそれぞれ続いていたのだ。勿論私は自分とパルの事しか頭になかったが‥そんな掛け替えのない時間が終わろうとしている‥私は堪らない気持ちになり、縋るような目でお兄ちゃんを見て訴えた。
「時間を戻したら、私は今あった事を全て忘れてしまうんでしょう?ギリのこともあなたがパルであることも‥あなたはそのままなのに‥そして私は、これから地球人そのものになって生きていくの?あなたのことも私が本当は火星人の原子体を持つ異星人であることも、そして地球の危機をギリが命を捨ててまで救ってくれたことも何もかも忘れてしまうの?」
覚えていたい。少なくとも何度も生まれ変わりながらその度に自分を見守ってくれてきたパルの存在だけでも‥
忘れたくないのだ。私は心から願い、パルの存在だけでも記憶から消さないでくれと必死に訴えた。だがパルは、そんな私に悲しそうな表情のまま首を横に振るだけだった。暫くして気を取り直したのか、涙を浮かべる私を励ますようにお兄ちゃんは明るい声で口を開いた。それは同時に自分を奮い立たせるようにも思えた。
「いいかい?これは決して別れじゃないんだよ。これからも君と僕は会えるんだ。この先繰り返されるそれぞれの人生で、何度も巡り会うことになる。これは新たなる人生の始まりなんだ。君の今の記憶は無くなるが、君を見守る僕という存在は必ず感じ取れるようになる。」
「それは本当なの?記憶が消えても‥?」
「ああ、僕はいつでも君のそばにいる。だから心配しないで‥さよなら、レアである君とはもうお別れだ‥もうレアとは呼べない‥」
「お兄ちゃん!」
パルの声を聞きながら私は周囲を白い霧のようなものが覆うのがわかった。
「これは‥」
意識があるのはそこまでだった。パルの姿が次第に薄れ、見えなくなったかと思うと次の瞬間‥その時はいきなりきた‥
「お母さん、何してるの?お弁当早く!学校に遅れちゃう!」
娘の理恵の声がぼんやり突っ立ってる亜希子を急かす。
「えっええ‥ごめんなさい‥」
「どうしたんだ?ぼんやりして‥」
「いえ、何でもないわ‥お弁当ね!はい!」
出勤の身支度で忙しそうな夫の正史が声をかけるが、それまでの出来事が全て記憶から消し去られている亜希子はすぐに平凡な主婦としての日常を取り戻し、いつものように朝の食卓を忙しく動き回るのだった。
「行ってきます!」朝食を終え会社や学校に行くそれぞれの声に「行ってらっしゃい!」と同じ調子で答えながら、亜希子はいつも通り食卓の片付けに追われる。するとテレビのニュースで意外な内容が流れていた。ミサイルや核開発等で全世界を威嚇し続けていた軍事独裁国家のトップが、何といきなり態度を改め全世界に謝罪しこれから核開発は決して行わないし、ミサイルも一切放棄すると宣言したという。
(どういう風の吹き回し?あれだけ自分達は負けない、核保有国になる為に核開発は続けるって息巻いていたのに‥)テレビを見ながら亜希子は思わずそう呟いたが、それでもやはり安堵感に満ちた苦笑いが顔に出る。
(でもすっごく緊張してたのよね。最近の世界は不穏な動きばかり目について‥あの国実質的に国の中は目茶苦茶らしいし、自棄になって核のボタンとか押し兼ねない様子だったもの‥)
恐らく今朝のニュースを見て安堵してるのは亜希子だけではないだろう。隣国といえる位置にあるだけに暴発するような事があれば、日本全土に被害が及ぶのは目に見えている。多分ニュースを見ている国民の殆どがホッとしているに違いない‥
と、その時だった。いきなり電話が鳴り、何故か亜希子はただの電話なのに思いの外ドキッとしたのだった。すぐに受話器を取ると、そこからは従兄弟であり幼い頃からお兄ちゃんと慕ってきた誠一郎の声が聴こえてきた。彼、田村誠一郎は大学で地質学を教えていて、世界各地を研究や調査で飛び回っている。四十代も半ばなのにまだ独身で、亜希子は会う度に恒例行事のように結婚を急かすのだった。その実一人っ子である亜希子にとって誠一郎は兄のような存在であり、彼が結婚するなど本当は考えたくない心境だった。
「あっ、お兄ちゃん久し振り‥確か仕事で外国に行ってたんじゃ‥帰って来たの?」
「亜希ちゃんか‥朝一番の便でさっきブラジルから着いたんだ。チャリで帰るとこなんだが、腹ペコで亜紀ちゃんとこでお握りでも食べれないかなと思って‥今、近くにいるんだ。」
「まあまあ‥時差ボケも何のその、南米から帰ったら即チャリで都内まで帰るなんてどこまでバイタリティあるんだか‥」
誠一郎の職場である大学は亜希子の家から割と近く、彼女は兄とも慕う彼の為によく食事を振る舞ったりしていた。そして今日もいきなり‥
「お嫁さんもらわなきゃね、いい加減‥」
呆れたように答えたものの、誠一郎が来るなら喜んでお握りを握る。そんな亜希子だったが、何故か今日だけはいつもと違うような何か不思議な違和感に囚われたのだった。
「何だろう‥?」考えてもわからない。大好きなお兄ちゃん、子供の頃から兄のように慕ってきた大好きな従兄弟‥自分には確かにずっと自分を見守ってきてくれた心の拠り所ともいえる優しい存在があった。亜希子は何故今日はいつも以上に誠一郎のことを意識するのか、自分でもわからなかった。ただこれだけは言える。自分にはいつも見守ってくれた優しい眼差しがあったような気がする。事実あったのだ。それは親?知り合い?今はお兄ちゃん?亜希子はその時、何故かとてつもなく大切なことを自分は忘れてしまってるような気がした。それが何か?どうしても思い出せない。だがその時、ピンポーン!玄関のベルが鳴った。
「はあーい!」
インターホーンの先には大好きなお兄ちゃんがいた。いくつになっても変わらぬ笑顔で亜希子を見つめてくれていた。(了)
永遠の邂逅第二章
エマは内心どうしょうもなく落ち込むのを、自分でもどうする事も出来なかった。以前から恋心を抱いていた学友のラウルには既に故郷に許嫁がいる。そう聞かされた時、自分の彼への思いが片思いでしかない事実を嫌という程思い知らされたからだ。その上自分と彼との立場の違い‥自分の身内の名を彼に正直に明かせない現実も今のエマの心をどん底に追いやっていた。エマは家族を捨てて身一つで自由の国に出国したつもりだったが、現実では家族との繫がりは切れていない。そう簡単に切れるものではなかったのだ。エマの父親は共産主義国家のトップを何年も務めていて世界中から間違いなく独裁者と見られている人物だった。自由を求める人達を様々な名目で弾圧し、自由主義国家を人間社会の驕りの境地と批判する‥それが証拠に自由主義国家では汚職や賄賂が横行してるではないかと彼はよく口にしていた。
そんな父親を嫌い厳しい監視の目を掻い潜って国外に脱出する‥幼い頃からのエマの望みだった。それは彼女の亡くなった母ミーシャの願いでもあった。病気になってからも母親はよく冷酷な独裁者となった父エステバンのことを心配し、こう言って嘆いていたものである。
「昔はあんな人じゃなかった‥もっと穏やかでも優しい人だったのに、何故あんな頑なで冷たい人になってしまったのかしら‥私はあの人とリカルド、そしてあなたと親子四人で平凡でも幸せに暮らしていければそれで良かったのに‥」
そう口にする度必ず母の目には涙が滲む。リカルドというのはエマの四つ年上の兄だが、父を否定する妹と違って彼はすっかり父親の思想に染まっていた。一国の首相となり強権を奮う父は正しいと、間違いなく信じ込んでいた。それでも留学という名目で、娘が国外に出る事を何故か認めてくれた父だった。
エマは留学先として世界の超大国アメリカを望んでいたが、叶わなかった。留学は許しても留学先は親に勝手に決められた。それはフランス、何故フランスなのかわからなかったが何より国外に出る事が先決、エマは父親の決めた事に従うしかなかった。そしていよいよ留学する日が近づいた前々日の夜、母の遺影を手に感慨にふけっていたエマの部屋を兄のリカルドが珍しく訪れた。
「お兄ちゃん、珍しいわね!どうしたの?いきなり‥」
「ううん、父さんもどうかしてるよ!僕より先に妹のお前を外国に行かせるなんてな!それも父さんを批判してる西欧の自由主義国にだよ!」
「頭の出来が違うんだもの仕方がないじゃない。それにお兄ちゃんには近くにいて今の自分を支えて欲しいんじゃないの?」
エマの言葉にリカルドは戸惑った様子を見せたが、それでも妹に西欧の自由主義にかぶれる事なく帰って来るのを望んでいると釘を刺すのも忘れなかった。
「自由や民主主義を求める奴らは真面目に働く我々のような労働者と違って実に上手く立ち回る。批判されれば真面目にやってると反論するが、その実彼らの世界は賄賂や汚職が横行している。上手く立ち回れる連中だけに都合のいい世界だ‥」
余りにも一方的な主張だと感じエマは思わず口を尖らせる。
「一方的な見方だと思うわ!自由主義社会がそんな腐った社会なら私達の国の方がずっと発展してる筈よ!でも現実はどう?彼らの世界の方が裕福であり幸せそうに見えるけど‥」
火に油を注ぐ妹の反論にリカルドは更にエスカレートして反論しようとするが、エマはもう相手にする気にもならなかった。怒鳴る兄を尻目に留学先の大学に提出する書類や引っ越しの準備を黙々と続けるのだった。
(でも‥)確かに気にはなる。何故父は自分の留学を許してくれたのだろうか‥兄と同じように娘も民主主義を否定する人間になって欲しいと願って?まさか‥
答えが出る筈もなかったが、エマはとにかく自分の信じる道を歩くしかないと自分自身に言い聞かせ急かされるように留学先に旅立ったのだった。
エマは留学先の大学に自分の素性は出来る限り他の学生には明かさないように頼んでいた。頭脳明晰で兄のリカルドより学校での成績がかなり優秀なエマは、その気になればフランスの有名大学を受験し合格する可能性も十分あったのだが、何より素性を知られた時のリスクを考え、あまり名の知られていない地方の大学を選んだ。それでも息が詰まるような父と兄との暮らしから離れられる事の喜びを留学当初彼女は痛い程感じていた。
勉強は元々好きであり自分の知らなかった知識が憧れの自由主義社会で大いに学べるのはこの上無い喜びだった。手元にある母の遺影にいつも語りかける。
「お母さん、やっと来れたわ‥お父さんに感謝しなきゃいけないんでしょうね!国でのあの人には正直いい感情は持てないんだけど‥」
すると反論する母ミーシャの柔らかい声が聞こえてくるような気がする。
「お父さんを理解してあげてって言っても無理かもしれないけど、昔の穏やかで優しかったあの人に戻ってくれる為にはあなたの力が必要だと思うの。とにかくあなたらしく一生懸命頑張って‥」
「お母さん‥」母を思うと思わず涙が溢れる。母の思い出には浸らずにはおれないが、学費や生活費を送ってくれる父の事は今は考えないようにしていた。どんなに働いて留学の必要経費を全て自分で稼ごうとしても、バイトの経験等皆無のエマには現実では無理な事だった。それに働かないのが父エステバンから提示された留学の条件だったのだ。それでも折角与えられたチヤンス、エマは学業に励み貪欲に留学先の大学で自分の知らない知識を貪った。いよいよ学業三昧の毎日が始まったが、エマは十分満足していた。毎日大学と自宅アパートの往復、半で押したような規則正しい生活だったがそれでも自由な世界で暮らせる毎日がエマは楽しかった。だがそんな中でも学友は出来るもの、美人ながらあまり人付き合いをしようとしないエマは、いつしか机を共にする同級生からミステリアスな女子大生と見られるようになリ本人の意識しないまま目立つ存在になっていた。自分の素性を余り他人には知られたくなかったエマは、出来るだけ他の学生と接触しないように努めていたが、そんな彼女の意識を変えてくれたのが生まれて初めて恋心を抱いた学友のラウルだった。そして何と驚く事に彼はエマの素性を知っていたのだ。
「君は今夜の親睦会行かないの?」
不意に声をかけられエマは酷く驚いた。授業を終えて教室を出ようとしていた彼女はいつものようにアパートへ帰る為に靴箱に手を伸ばそうとしていたが、ラウルの明らかに自分に向けられた質問に戸惑いつつ口を開く。
「私に聞いてるの?」「勿論!」
欧米系というよりどちらかと言えばアジア系の顔立ちで際立ってハンサムという訳でもないが、どちらかといえば可愛い顔立ちをしているラウルは、人懐っこい笑みを浮かべてエマを見ている。
「親睦を兼ねた会合、まあ飲み会なんだけどね!毎月あってるけど、君一度も参加した事ないよね!同じ大学に学ぶ者同士、大いに話してもっと親しくなろうよ!勉強も大事だけど青春楽しまなきゃ!」
こういう誘いは以前にも何度かあった。エマはその度に答えてきた言葉を繰り返し断ろうとしたが、その前にラウルは何と驚くべき言葉を口にした。
「君の出身国が何処であろうと君の親が誰であろうと、今の君に関係無いと思うよ!そんなに構えないで!君は君なんだから‥」
「えっ‥」エマは自分の耳を疑った。まるでエマの父親が誰なのか知ってるような口ぶり‥
「あなたは‥もしかして‥私の親を‥知ってるの?」
恐る恐る口にしたエマの問いだが、ラウルの信じられない位の明るい口調の返答
が待っていた。
「ああ、でも大丈夫だよ!誰にも喋ったりしないから‥僕にだって誰にも知られたくない秘密がある‥お互い様だよ!でも僕が君の素姓を知ってるのに、君が知らないと言うのは不公平だよね!だから僕の素姓も話せる囲内で話すよ!僕は生まれた国を捨てて亡命してきた人間なんだ。」
「えっ‥」エマはラウルの思いも寄らない告白に返す言葉が見つからず絶句した。まるで‥
「まるで今の君と僕の立範場、正反対とか思ってる?」
エマの思いを見透かしたようにラウルは語りかける。
「僕は自分のやりたい事の為に亡命した。君は自由な世界で学ぶ為にこの国に来たんだろう?お互い縛られる事なく、自分の為に生きようよ!頑張ろうよ!」
「いきなり‥いきなリそんな風に言われても‥」
戸惑うエマにラウルは更に優しく続ける‥
「僕の国の国民は殆どが貧しくてね。でも大富豪って連中もいる、貧富の差が大きいんだ。其上どんなに不満に思ってても誰もその不満を口にする事も出来ない。お役人に捕まってしまうからね‥」「そんな‥」
どこかで聞いたような国のあり様‥でも‥エマは思った。自分の祖国はそこまで酷くはない。確かに父エステバンは強い権力を持ってはいるが、彼は決してそれを個人の欲望の為にだけ使おうとする人間ではなかった。エマは知らず知らずのうちに父親を擁護している自分自身に驚いたが、そんなエマに構わずラウルは話を続ける。
「僕の父親は僕の住んでいた地域のリーダーでね、面倒見のいいみんなから頼りにされる優しい人間だった。特に権力に対して公に刃向かった訳でもないのに、逮捕され今勾留されてる。お役人に口答えした地域の若い連中を庇っただけなのに‥」
「僕は幸いフランスに頼りになる親族がいるので母が亡命という形で国を出る事を勧めてくれた。勿論母一人残して行く訳にはいかないって拒んだけど、母にはお前が私の希望なのだから行ってくれって地面に額を擦りつけられる程頼まれたよ‥其れで今の僕がある‥一応母とは連絡がとりあえる状態だからね、安心はしてるけど‥」
「ラウル‥」エマを見るラウルの瞳は悲しみに溢れていたが、彼はそんな思いを打ち消すように大きく首を振ると明るい口調で自分の身の上話を締めくくるのだった。
「そう‥それで?何故あなたが私の素姓を知ってるの?誰から聞いたの?」
ラウルの事はわかった。彼の母を思う気持ちも理解出来る。だがそんな彼が何故エマの事を知っているのか、彼女が疑問に思うのは当然だった。然しラウルは決してその事については詳しく話そうとはしなかった。彼は言葉を濁しながらもエマも含めた自分達の未来について明るく話を続けるのだった。
「迷惑をかけるかもしれないので、悪いが仲間の事は君にも話せない。でも心配しなくていい。僕は君の事を他の誰にも話すつもりは無いから‥ただ、君が余りにも頑なな姿勢で学生生活を送っていたからもっと青春楽しむべきだよと言ってあげたかったんだ!」
「学生だもの、勉強に集中するのは当然だと思うけど?」
思わず口を尖らせるエマの顔に爆笑しながらラウルは答える。
「ごめん、ごめん‥いやあ、君もそんな顔するんだね!安心したっていうか‥」
「私をバカにしてるの?」思わず声を張り上げるエマだったが、ラウルはあくまで冷静で楽しそうに語り続けるのだった。
「ミステリアスな美女、君は同級生からそう呼ばれてるの知らないのかい?言い寄ってくる男も寄せ付けず只管便利三昧、君は美人だし今のままでも君はしっかり目立ってるんだけど‥」
「目立って?」それは困ると思いつつ自分の苦境を物ともしないラウルの明る過ぎる口調に、エマは知らず知らずのうちに引き込まれるのだった。彼は更に続ける。
「君は自分の国の現状に不満があるのなら、ここで大いに知識と経験を培って帰国したら自分の国をいい方向に変えるように励めばいい。言っちゃ何だが君の国は僕の祖国よりずっとマシだと思うよ。独裁国家のように言われてるが、君の国で国民は弾圧されてない。君の父親が誰かわかってもみんな多分君を否定したりしないと思う。」
「本当に?」エマの問いにラウルは大きく頷いて答える。
「君は君、父親が誰だからといってそう簡単に態度を変えるような軽率な連中じゃないよ、みんなは‥まあ全てがそうじゃないかもしれないが‥とにかく、一度親睦会に参加してみない?スッごく楽しいよ!ええっと今度は来週の金曜日の夜だね!一応行く方向でリーダーには言っとくよ!時間と場所は後でメールするから宜しく!」
「あっ‥待って!」一方的に自分の意向だけ伝えると、ラウルはエマの返事も聞かずに彼女の前から足早に去っていった。
「メールって‥」変な事を言う、エマの携帯電話番号やメールアドレス等ラウルは知らない筈なのに‥
それに彼の言う仲間って‥何が何やら分からぬまま、エマはラウルの後を追う事も出来ずその場に立ち尽くしていた。確かに彼の言う通り、余り構えて自分から同級生との間に壁を作るべきではないかもしれない。そんな思いはエマの心の片隅にはあったのだ。街のカフェ等で楽しそうに語り合う同年代の若者を見ると、たまには自分も羽目を外してみたいとそんな思いに駆られる事もあった。だが‥彼が何故自分のメールアドレスを知ってるのか‥
親睦会に行ったら楽しめるかも、今までに無い体験が出来るかもという期待と自分の素性を何故か知ってる疑惑が半ば共存する心境でラウルに会う機会も無く、親睦会が行われるという金曜の前日、確かにエマのケータイにメールはあった。
「親睦会は午後7時から、場所は‥わかるかな?大学に一番近いレモンというカフェで‥」
メールを読み返しながらエマは、レモンという変わった店名のカフェの存在を思い出していた。「行くか‥」
行かなければ今のところラウルに会えない。それにコンパとも呼ばれる親睦会の実態がどんなものか、大いに興味があった。ところが‥極端な緊張と戸惑いの狭間で出掛けたものの、肝心のラウルが姿を現す事が無かったのである。
「初参加だね!ラウルから聞いてるよ!よく来たね!残念ながらラウルは急用が出来て来られないそうだけど‥」「えっ‥?」
親睦会を仕切っているリーダーらしい男性は、初参加のエマに明るく声をかけたが同時に彼女が落胆する言葉をさらりと言ってのけた。ペーターという名前の彼は、エマの落胆ぶりなど全く意に介さないようにその場にいる仲間に明るい声で彼女を紹介した。
「謎めいた美女がやっと僕たちのコンパに来てくれたよ、まあ誘おうと熱心に言ってたのはラウルなんだけどね!」
「そのラウルが何故今日来てないの?あれほど熱心に誘うつもりだと言ってた彼女がこの通り来てくれたというのに‥」
男性五名、女性はエマを入れて四名というグループで、派手な化粧の女性が口を挟む。だがエマが最も聞きたいこの質問にペーターもはっきりしない答えを口にするだけだった。
「うっ‥うん‥それがよくわからないんだ。何か大事な急用が出来たというだけで‥ エマ、いいだろう?呼び捨てで‥エマにしろラウルにしろ謎めいた学生かもしれないけど、僕達は決して変な目で見たりしない。ラウルはとってもいい奴だし、君も変に気取った所の無い真面目な学生さんだ。同じ大学に学ぶ者として、僕達は今のこの時を一緒に楽しんで謳歌したいんだ。」
ラウルと同じような優しい眼差し‥エマはペーターの言葉にホッとする思いだった。
「わっ私は‥」何と言っていいのかわからず口籠るエマにペーターの隣にいた男がグラスを握らせる。グラスには明らかにお酒と見られる液体が適量注がれていた。彼は小声でエマに囁いた。
「ワインですが飲めない方じゃないんでしょう?女性だからワインの方がいいかなと思ってね!もし飲めなかったら一口口をつけてくれたらいいから‥さあ、乾杯だよ!」
「乾杯?何に?」何かおめでたい事でも会ったのかとキョトンとした顔で問うエマにペーターは苦笑しながら明るく答える。
「こうやってみんなが集まった時は先ず乾杯から始める‥そしてみんなお互い話しながら親睦を深める。男女が時には恋愛関係にも発展する事もあるかな‥」
これが普通にみんなが過ごしている毎日、これが普通の学生生活‥エマは新しい世界に触れる事が出来て心から良かったと思えた。そんな自分の心境の変化に自分でも驚いたエマだった。以前の自分なら学生のくせになにを遊んでばかり、ダラダラしてと彼らに白い目を向けていたかもしれない‥だが、今の彼女は違った。今この時が自分にとってかけがえのない時間だという事をエマは強く認識出来ていた。その時だった。ペーターと先程エマにグラスを握らせてくれた男との会話に、ラウルという言葉が出たのをエマは聞き逃さなかった。
「ラウルの母国で起きた大規模な洪水被害はどうだった?彼の家族は大丈夫だったのかい?」
「えっ‥」二人の会話はどうやらラウルの出身国で起きたという自然災害について彼や彼の家族の安否を気に掛けるもののようだ。
「そういえば‥」確かに中央アジアの小国で大規模な水害が起きており、かなりの被害が出ているというニュースをつい最近耳にした事がある。確かに独裁政権で知られるこの国は小国ながらも天然資源には恵まれていたが、その利権は支配する側や一部の富裕層に牛耳られていて、多くの国民は貧しい生活を強いられていた。
「ラウルの母国ってあの国なのか‥」何となく納得したエマだったが、二人が次に口にした言葉に思わずドキッとさせられた。
「彼の恋人も大丈夫だったのかい?何か連絡が取れないとあいつ、かなり心配してようだが‥」(えっ‥、恋人‥)
聞かれているとも知らず!二人の会話は続く。
「家族とは連絡は取れたようだが、恋人とは未だに‥」
「そりゃ心配だな‥」二人の会話をぼおっと聞いていたエマは、複雑な思いに駆られた。
(何を焦ってるの?エマ‥ラウルに恋人がいたって別に不思議な事じゃないのに‥)
一度しか会って話した事はないのに、エマの心中には何故かラウルの存在が大きく位置を占めるようになっていた。自覚は殆ど無いものの、ラウルを気にするエマの思いは初恋と呼べるものかもしれなかった。然し今、その現実を彼女はまだ知る由もなかった。いずれにせよ二人は出会う運命にあったと言っても過言ではなかったかもしれない。
初めて参加した親睦会は、何よりラウルに会うという重要な目的は達する事は出来なかったが、今まで大学と自宅アパートとの往復を繰り返し狭い範囲で慎ましく生活してきたエマにとって新しい新鮮な体験となった。だが生来の生真面目さ故に留学させてくれてる家族や、祖国の国民にすら親睦会に参加する事が悪い事のように思えて気が引けるのをエマはどうする事も出来なかった。然しそんなエマに気にする事はない、学生なら当たり前の生活であり、毎日を勉学だけでなく、楽しく過ごすべきだと言ってくれたのもラウルだった。
「やあ、この前は来てくれたんだってね!それなのに僕が行けなくてごめんネ‥折角来てくれたのに‥」
「ラウル‥」いきなり肩を叩かれ振り返ると、そこにはラウルの人懐っこい極上の笑顔があった。
気になっていた人物の嵐のような登場にエマは驚き、胸の高まりを抑える事が出来なかった。それでも口を開くとエマは静かに答える。
「初めて参加したけど、とっても楽しかった‥ああいう事も学生なら楽しんでいいわけね‥あなたが来てくれると思ってたんだけど‥」
何故来てくれなかったのか‥責めたい思いを自分の心に包み込みながら、激しく揺れ動く心情とまるで正反対の穏やかな口調でエマは語り続ける。笑顔が似合うラウルだが、エマに答えるその表情には確かに少し陰りが浮かんだ。
「国が非常事態なんだ‥家族も大変な目に遭ってね‥」
「私、リーダーともう一人の会話を立ち聞きしたの。あなたの国、大規模な洪水被害に遭ってる中央アジアの‥あの国なんでしょう?」
「えっ‥」さすがに自分の境遇と今抱く心配事をすんなり言い当てられて、ラウルは驚いたようだった。だが彼はすぐにそれを受け入れ、ぽつりと呟く。
「そうか‥でも隠す事じゃないもんね!僕もだけど、君の素性もそうだよ!人間なんてこの生きてられる地球上で助け合って穏やかに暮らしていけばいいのに、何故啀み合うんだろうね!それでなくても自然災害も多いのに‥」
「ラウル‥」彼の表情には貧困だけでなく自然災害の脅威に晒されている同胞ともいうべき人達への思いが溢れていた。
彼は静かに口を開く。
「君の言う通りだ。僕の国ではここ数日雨が止まないでね‥酷い洪水となって国民を苦しめてる‥みんな貧しくてそれでなくとも毎日暮らしていくのがやっとなのに、何故神はこんなに弱い人々を苦しめるんだろうね‥裕福なのにそんな人達を救けようともしない連中もいる‥そんな奴らにこそ罰が下るべきなのに‥」
「ラウル‥」何と言っていいかわからず戸惑うエマに突然いかんいかんと自分に言い聞かせるように大きく首を振ると、ラウルはいつもの人懐っこい表現に戻って笑顔を見せた。
「どんな人にも不幸になるべきだってそんな言い方したらダメだよね!今の僕には心配するしか出来無いんだけど、それでも何とか家族とは連絡が取れてるから‥」
「ラウル‥」そういえば家族とは連絡が取れてるが恋人の安否だけはまだわからないと言ってたなあ‥あの時の二人の会話を思い出したエマは、その事について聞こうか迷ったがやはり尋ねる事は出来なかった。そんなエマにラウルは何故かしんみりとした口調で静かに語りかける。
「何故かわからないけど、僕は君のことが気になる。いや、最初はそうでも無かったのに‥何故か君のことは昔から知ってるような気がして‥」
もしかして口説いてるの?しっかり恋人がいるくせに‥少し呆れながら笑顔を返したエマだった。
「あなたには家族以上に安否が気になる人がいるんじゃないの?この前立ち聞きした会話にそんなニュアンスの言葉も聞いたわよ。」「えっ‥」
迷ったがしっかり口にしたエマの言葉にラウルはただ驚く。そんな彼にエマは静かに続けた。
「確かに恋人がいるって言ってたわ。あなたの私生活に私が入り込む事はしたらいけないんでしょうけど、恋人がいるのに私の事が気になるってどういうこと?」
思い切って尋ねたエマの言葉にラウルは何とも言えない表情を見せた。
「君の事が気になってたというのは事実だ。でもそれは自分でも説明出来ない恋愛感情抜きの複雑なもの、何というか、生まれる前から君の存在を知っていたような‥」
「まあ‥変なこと言うのね‥」思わず苦笑するエマに、ラウルはいきなりエマが思ってもみなかった言葉を口にした。
「まだみんなにも言ってないが、君にだけは打ち明けておこうかと思う‥」「えっ‥?」
「何故こんな気持ちになったのか自分でもわからない‥でも君には伝えておかなければならないような気がする。僕はやはりこの国でこのまま学生生活を続けるのは無理みたいなんだ‥」「えっ‥」それはどういう事?続けて尋ねたいが言葉が出ない。そんなエマにラウルは祖国の窮状を訴えると共に、その現状に帰国して自ら身を投じる決意を口にするのだった
「僕の国では国民の暮らしぶりなど全く気にする事なく権力を振るってる暴君がいる‥みんな何とか耐えていたが、そんな国民の窮状を更に厳しいものにしたのは今起きてる大規模洪水‥自然災害だ‥」
「ラウル‥」言うべき言葉が見つからず戸惑うばかりのエマに、ラウルは重苦しい表情で言葉を続ける。
「人間って本当に愚かな生き物だね‥昔学校で学んだがこの地球が生き物を育める奇跡の星になったのは正に奇跡的な確率で僕達地球人はそれを当然の事と思ってはいけないんだ。それなのに人間って本当に自惚れた愚かな存在に成り下がってしまった‥自分達がこの星の主と言わんばかりにやりたい放題‥平気で戦争を仕掛けたり、必要もないのに自分達と違うから従わないからと言って相手を傷つけたリ無視したり‥一日一日を何事も無く穏やかに過ごせる事がどれだけ恵まれた幸せな事か、わかろうとしない愚かな人間が多い‥」
「ホントにね‥」
以前祖国で起きた大地震で大切な身内を失った同級生の回顧録を図書館で読んだ事がある。彼女が味わった悲しみが切々と綴られていて、読んでいて魂が揺さぶられる思いがしたが、その内容にも確か同じ言葉が書かれていたとエマは思い出していた。だが、今最も知りたいのはラウルの気持ち、彼がこれから何をするつもりかという事だった。
「学校を‥やめるの?」恐る恐る尋ねてみたエマに、ラウルは最初言うか言うまいか迷ってたようだが、ゆっくり頷くと自分を鼓舞するように力強く言い放った。
「家族に危険が及びつつある‥僕だけが安全な場所にいる訳にはいかないと思う。勿論家族は今は戻って来るなと言ってるが‥」
「あなたが戻ってあなたの家族やあなたの国の国民の状態がいい方向に向かうの?」
「エマ‥?」ラウルは意外な事を言うという表情でエマの顔を見た。そんなラウルに構わずエマは続ける。
「私の父親はあなたの国の暴君程ではないかもしれないけど、やはり独裁者と言われてるわ‥母は病気で亡くなったけど、死ぬ前に昔はあんな誰にでも厳しい人ではなかった。もっと優しい人だったって言ってた‥それでも父は私の留学の願いを聞き入れて、自由主義社会に送り出してくれた‥父は確かに厳しい人だけど国を愛する心は持ってる‥責任感も‥そんな父がトップを務める私の国とあなたの国とは違う‥違いすぎる‥」
「エマ‥」何が言いたいのか自分でもはっきり分からぬまま、エマはラウルに語り続ける。
「あなたが無事でいてくれる事が何より大事だということ‥身の危険があるのに今大学をやめて帰国するなんて、リスクが高すぎる‥何より私はあなたには無事でいて欲しいの‥」
「エマ‥」二度しか会ってない人に何故ここまで強い感情を持つのか、エマは自分でも自分の気持ちがわからなかった。それははっきりラウルへの恋愛感情と言えるものだったが、実は二人には人以上に超越した関係があったのだ。だがその事実を知らないエマはラウルに祖国とはいえ危険な環境に戻るつもりなら、自分も冷静でいられない。何が何でも止めるつもりだと告げた。今のエマにはそう言う事しか出来なかった。
「君は何故そこまで‥」
ラウルは唖然とした表情でエマを見つめたが、やがて何も言葉を発する事なく柔らかい微笑みを見せてエマの前から去った。
「ラウル!」エマの彼を呼ぶ声が虚しく響いた。その時だった。エマの頭の片隅で確かに声が響いた。今までに聞いた事の無い低い声がエマの頭の中で思いがけない言葉を発した。
「駄目だ、君はラウルを好きになってはいけない。たとえ彼の生死がどうなろうと‥」「えっ‥?」
自分はどうかしてしまったのか‥確かに聞こえた、謎の声が‥それとも幻聴?いきなり混乱の極みに突き落とされたエマの耳に再び謎の声が響く。
「私の声は君にしか聞こえない。君は知的で冷静な女性の筈だ。落ち着いて私の話を聞いて欲しい。」
「何が‥」疑問を思わず声に出したエマだが、近くにいた女学生に変な顔をされて思わずハッとした。
確かに謎の声は自分にしか聞こえていないようだ。謎の声に自分の声で反応すれば周囲から変な目で見られるだけだ。暫く無言でエマは謎の声が再び聞こえてくるのを待ったが、声はそれっきりで何も聞こえてこなかった。エマは仕方なくそのままいつものように学生としての義務を果たす行動を取るしかなかった。心ここに有らずといった調子でアパートに帰宅したエマだったが、突然かかってきたケータイの着信音に思わずドキッとさせられた。
「はい‥」「あっ‥エマ?突然ゴメンな!」電話は祖国にいる兄のリカルドからだった。
「どうしたの?いきなり‥びっくりするじゃない!」
「お前がそう言える立場か?こっちからかけなければ碌にかけてこないくせに‥」
口を尖らす妹をそう叱ると、リカルドは落ち着いた口調で今度は妹に思いがけない事実を告げるのだった。
「いやね、正直言って父さんの具合が余り良くないんだ。持病をいくつも抱えているあんな身体で、国のトップという過酷な仕事をこなさなきゃならないからね‥」
「そんなに悪いの?主治医の先生は何て仰ってるの?」
独裁とも言われる体制をしき、厳しい政策で自由を求める国民をある程度抑圧してきた父だけに、今のエマは少なからず父エステバンとは距離を取っていた。
だが、さすがに娘として父の身体を気遣う気持ちはあった。それに‥独裁とはいっても父は決して権力者としての立場を自分に都合のいいように使ってはいなかった。厳しい政策を取りながら自由を求め抗議する国民の声を抑圧しながら、彼が国民の誰よりも働いているのは事実だったと言えよう‥そして、リカルドは父の健康状態を気遣う妹に思いがけない要求を突き付けた。だが一方でそれは子供として当然するべき事を言ってくれたものだった。
「エマ、一度帰って来ないか?親父を見舞ってやって欲しいんだ。親父は強がってはいるが、本当は心も身体もボロボロなんだ‥お前にも絶対会いたがってる‥」
「そんな‥」いつも真っ向から異なる意見をぶつける娘を顔を赤らめて怒鳴りつけていた厳しい父の顔が頭に浮かぶ。確かに弱音を吐けない立場にいる父だが、自分に本当に会いたがっているのだろうか‥戸惑う妹の迷いを見透かしたように、リカルドは話を続ける。
「強権で独裁的だと昔から父さんを非難してきたお前だが、本当は父さんが誰よりも国を思い国民の為に働いてきたことをお前だってわかってる筈だ。みんなが平等に豊かになる、父さんはそんな国を目指して懸命にトップとしてこの国の政治の舵取りをしてきた‥勿論自分達だけが金儲けに走ろうとする連中にとっては父さんは厄介な存在だっただろうが‥」
「でも父さんは言論や思想信条の自由も認めなかった‥それはやり過ぎじゃないの?人はロボットじゃないのよ?」
「一人一人自分達の思うように考えを主張すれば、それこそ国として統率が利かなくなる。自由は制限されて当然だ。僕はそう思う。人間は一度自分の思いが通れば、自由を自分達の権利としてどこまでも主張しムリを通そうとするからな!」
「そんな事無いわよ!良識のある判断や主張なら認めるのが当然だと私は思うんだけど‥」
「そりゃ、そうかもしれないが‥」
リカルドは妹の言葉に躊躇いがちに応じたが、やがて達観したように静かに口を開いた。
「永遠の課題なんだろうな‥社会主義と民主主義、人間社会の有り様はどちらが理想的なのか、永遠に答えの出ない人間社会の課題‥」
エマはその時ふとラウルの言葉を思い出していた。‥人は愚かだ‥折角この生き物が生息出来る奇跡の星地球に生を受けたのに、その楽園のような環境で平穏に生きていけるのに争いばかり‥一日一日を平穏無事に暮らせるのがそんな当たり前の事がどんなに恵まれた事か、全くわかっていないしわかろうともしていない‥
「エマ?」考え込んだ妹にリカルドは電話で呼びかける。
「あっ‥ううん‥」エマは電話口の兄に何と言うべきか迷ったが、とにかく夏季休暇に入ったら出来るだけ早く帰国すると答えて電話を切った。父を案じる気持ちとラウルを案じる気持ち‥どちらを案じる気持ちが勝っていたか自分でも今ははっきり答えを出せなかった。
その後ラウルの姿を大学で見かける事もなく、懇親会で知り合った男子学生の話では、彼は休学の手続きを取っていてまだ復学する見込みは立ってないということだった。口籠るエマにペーターは、彼の境遇についてエマが更に心配になるような言葉を口にする。
「本当は誰にも話すなって言われてるんだが、あいつ今相当大変らしいんだ。国の体制にしろ自然災害にせよ、あいつの周りではあいつを苦しめる事ばかり‥本当に思いやりのあるいい奴なのに何故あいつが‥」
エマとて自分の立場がある。兄から父の具合が悪いので一度帰って来るようにと請われている。ラウルの国とエマの国、同じ独裁国と見られながら不思議な因縁で関わり今は何よりも彼の事が気になって仕様がない、何故‥?エマは彼の事がどうにも気になる自分の気持ちを図り兼ねていた。その時だった。以前エマだけに聞こえてきた謎の声が、再び彼女の耳に響いたのだ。
「君はラウルの事を好きになってはいけない。彼がたとえ死ぬような事があっても君は同窓生として悲しんでもそれ以上反応すべきではない。」
「何ですって!」余りにも冷酷な物言いに思わず声を荒げるエマにペーターは驚く。
「あっ‥」ヤバい!エマは咄嗟にケータイを耳に当て話し込んでいる風を装った。
「ごめんなさい、急に思いがけない内容の電話が掛ってきて‥じゃあ悪いけど私行くね‥」
「あっ‥ああ‥」唖然とするペーターを残して、エマは急いでその場から立ち去っ
とにかくおかしな人と思われない為にも今は誰もいない場所に行く必要があった。やっとその場所に行って改めてエマは謎の声に問い質す。
「あなたは誰?私にしか聞こえないなんてあなたはマジシャン?それとも人間じゃないの?まさか異星人とか?」「その通りだ‥」
予想に反して思いがけない即答があった事にエマは息が止まる程驚いた。そんなエマの戸惑い等構う事なく、謎の声はエマがとても信じられない事を続ける。
「我々の声が聞こえるのは、君が我々と同じ異星人の種を持つ仲間だからだ。地球人なら絶対に我々の声を聞く事は出来ない‥」「バカな‥」
エマは即座に声の言う事を否定した。自分は間違いなく人間だ‥生まれてこのかた紛れもなく人間として生きてきた。亡くなった母、独裁者と見られているが何よりも自分に厳しい父、そんな父を祖国で懸命に補佐している兄‥間違いなく自分の家族だ‥
「私は人間よ‥何故?何故そんな有り得ないバカな事を言うの?親から生まれた‥成長の記録、思い出‥私の心に全てある‥」
すると声は今度は更にエマが驚愕するような言葉を口にした。
「君が今、安否を知りたがっているラウルも君と同じ異星人だよ。我々と同じ種を持ってる我々の仲間だ‥」
「何ですって?」その言葉を聞いて思わず固まるエマだった。
驚くばかりのエマの気持ちに気を配る様子など微塵も無く、声は更に冷静さを増しエマにとってとても信じられない話を続ける。声の調子が冷静なだけにその話す内容の異常さは際立っていた。
「もう地球は目茶苦茶だね‥地上では国同士、異民族同士の争いばかり‥君もラウルもその争いに巻き込まれていずれ命を落とす運命だ。あくまで地球人としての命だけどね‥」
「地球人としての‥命?」「ああ‥」
何を言ってるのだろう?私もラウルも地球人なのだから、死んでしまえばそれまでなのに‥自分やラウルの未来を否定されたも同然の声の話す内容だったが、不思議に余り怒りは覚えずエマはいつしか冷静に声の言う事に耳を傾けていた。そんな彼女に謎の声は彼女にしか届かない話を続ける。
「本当はラウルもだが、君にも直接話しかけるのはしてはいけない事なんだ。それでもこの地球人の愚かさに落胆しこの星を離れる決心をした私にとって、君とラウルの事はどうしても気になる存在だった。君とラウルの純粋な人柄はこの星に埋もれさせるのは勿体ない程‥君とラウルは我々と同じ火星人のタネを持つ仲間なんだ‥今現在我々の仲間は、新たな移住先を求めて宇宙を旅している。彼らと連絡を取り迎えに来てもらう事は出来る。一緒に行かないか?地球人ではなく、本来の火星人としての姿に戻って争いの無い理想郷を真の仲間である私達と共に目指さないか‥」
「待って、待って‥」今のエマはそれだけ言うのがやっとだった。火星人の姿に戻って宇宙を旅する仲間と共に、争いの無い理想郷を目指す?どういう事?混乱するばかりのエマに余りにせっかちな言い方だと思ったのか、声は改めて地球と自分達火星人との関わりを丁寧に語り始めるのだった。
「我々火星人は地球人より遥か以前に火星で高度な文明を築いた。だが急激な環境の変化で我々は故郷である火星を去って新たな住まいをこの広い宇宙に見出すしかなくなったんだ。その時地球は恐竜時代から後の氷河期に差し掛かっていた。我々は同じ太陽系の惑星である地球を仲間だと、或いは弟のように思っていた。一部の仲間は暮らしていけない環境なのに敢えてこの星に残る事を選んだ。そして彼らは苦闘の末に地球の環境に順応し、この星で我々火星人のいわば遺伝子とも言うべきタネを残す事に成功したんだ。そんな火星人のタネを持つ外見上は地球人そのものの人間は地球上には何人もいる。具体的な数は言えないが、君もその中の一人、ラウルもだ‥」
「そんな‥」そんな俄には信じられない話、受け入れられる訳無いじゃない!頭に浮かんだ言葉さえ何故かすんなり口にすることが出来ない。謎の声はエマにしか聞こえないようだから、妙な独り言としか見られないのではないかと自分の思いをエマが口にするのを躊躇うのは当然の事だった。それでも声は自分の思いをエマが理解してくれるように懸命に言葉を繋ぐ。その口調は次第にとても柔らかくなっていきエマはふと昔確かに聞いた覚えのあるような声だと思えるのだった。
「とにかく考えておいてくれ、私は行かなければならなくなった‥」
声は急に慌てたようにエマの脳裏から消えた。「えっ‥」
エマは戸惑う。すると謎の声が最後にエマが更に信じられない事を口にした。
「行く前にもう一つ大事なことを‥君とラウルは地球上でいういわばテレパシーのようなものを使える。お互い口にしなくても頭の中だけで会話出来るんだ。二人共同じ火星人のタネを持つ仲間だからね。呼びかけてみたまえ、直ぐにはムリだろうが何度も心の声をかければ必ず彼に届く筈だ。」
「まさか‥」ラウルには会いたい、直接話したいと強く願っていたエマだが会わなくても頭の中で会話出来ると聞かされてやはり驚いた。だが同時に何故かもうどんな驚くべき内容も今の自分なら受け入れられるような気がした。会わなくても話せるのならそれにこしたことはない。彼女は腕時計を見て既に授業が始まってる事に気付くと、慌てて教室に駆け出した。頭の中では様々な思いが巡っていたが今は学生らしく講義に出るしかなかった。
講義が終わった後エマは見知った学生にラウルの消息を片っ端から聞きまくったが、彼が今何処にいるのか知っている者は誰もいなかった。
「あいつ今相当ヤバいんじゃないかな!反体制派のトップに祀り上げられてるらしいし、あいつの国とんでもない独裁国家だろう?それでなくとも大変な自然災害で国民は窮してるみたいだし‥」
「やっぱり‥」エマは落胆した。落胆するしかなかった
エマにラウルの近況を伝えてくれた彼は、今はもう連絡しても全く返事は無くメールも返ってこないと嘆いていた。ラウルの事が気になって仕方のないエマだったが、翌早朝兄リカルドからの電話で今度は自分の祖国、父エステバンの身にも思いがけない事態が起きている事を知らされた。
「もしもし、ああ兄さん?どうしたの?こんなに朝早く‥」
「そっちは早くてもうこちらは真っ昼間だよ!それよりエマ、クーデターが起きた‥軍の暴発だ‥父さんが大統領を解任された‥」
「何ですって‥」思ってもみなかった事態を告げられエマは言葉を失う‥確かに父エステバンには政敵はいた。厳格な政策も国民から必ずしも支持されていたとはいえない。だが、父のやる事に腐敗や不正という内容は一切無かった。それも事実だ。それなのにまさか、まさか軍が、軍がクーデターを起こすなんて‥切羽詰まった声でエマは兄に尋ねる。
「それで?それで父さんは今どうなってるの?軍のクーデターって以前からそんな兆候あったの?」妹の問にリカルドはあくまで落ち着いた声で答える。
「父さんは今軍の幹部に監禁されてる。一応移動の自由はあるが行動は全て監視されていて、自由にものが言えない状態だね。僕もほぼ同じ状態だよ。お前に今の国の状態を伝えたいと言ったら電話するのを何とか認めてくれた‥」
最早、ラウルの事ばかり考えていい事態ではなかった。でもそれでも、エマはラウルを思った。会いたかった。会って話したかった。然し‥エマはこのまま自分が自由主義国側で学生生活を続ける事が可能だとは思えなかった。現実は厳しいものだ。とにかく帰らねば‥エマは決心すると兄にここを引き払って直ぐに二人の元に戻ると告げたが、リカルドは妹の決意を怒りその思いを撥ねつけた。「兄さん!」
「いいか、帰って来るんじゃない!この国は今おかしくなろうとしている!国民の気持ち等全く考えようとしない軍部が国の実権を握ったら我が国はおしまいだ!お前が帰って来ても父さんや俺と同じような目に遭うだけだ!」
「だけど‥軍は一体何がしたいの?父は確かに独裁的だったかもしれない。でも父さんのやる事に不正や汚職なんかの腐敗は一切無かった。なのに何が不満で?」
「それでも‥生温かったんだろうな、あいつ等からしてみれば‥」
「そんな‥」
エマは只管悲しかった。この地上で穏やかに慎ましく生きていこうとすれば出来る筈なのに、贅沢等せずにただ働いて一日の糧を得てその日を過ごす‥確かに自然災害も多いがこの星に生を受けた者からしてみれば、地球は生き物の楽園の筈だ‥思えば人間程愚かな生き物は無いかもしれない。人間は決してこの星の主ではないのだ。なのに何故思い上がる?エマはいつしか自分があの謎の声に同調している事に自分でも驚くのだった。
ニュースではエマの祖国に起きた政変を、何処にでも起こりうる普通のありがちなニュースとして扱っていた。エマの素性を知らない学生の多くは、当然だが彼女に対しての態度も変わらなかったが、ラウルの知り合いと思われる男子学生には心配そうな声をかけられた。
「ラウルも大変だが、君の国も大変な状況になったらしいじゃないか?」
「えっ‥?」
「どうするんだい?ラウルには君の様子について細かく知らせて欲しいと言われてるんだが、どうするつもり?国に帰るの?」
「あなたはラウルの‥?」エマの問にレイと名乗った男はすんなり答える。
「勿論仲間だよ!彼の同国人だ。洪水の被害の僕の家族の安否もラウルには確認してくれるように頼んでる。君の事はラウルから聞いて知ってる。」
「それでそれでラウルは今どうしてるの?無事なの?何故連絡してくれないの?声も聞かせてくれないの?」「エマ‥」「あっ‥」
何故自分はラウルの事にはこんなにも興奮して常軌を逸した態度を取ってしまうのだろう‥自分とラウルは火星人のタネを持つ異星人だというあの謎の声が発した言葉がエマの脳裏に浮かぶ。と‥その時だった。頭の片隅に不意に彼女を呼ぶ声がした。
「エマ‥エマ‥聞こえるかい?」
「えっ‥?」エマは耳を疑った。確かに聞こえた。そして声の主は確かにラウルだった。でも何処を向いてもエマの近くにラウルの姿は無かった。
「どうしたの?」不意に落ち着きなく周囲をキョロキョロ見回すエマを奇異に感じたらしく、レイが声をかける。
「あっ‥ううん‥じゃあごめんなさい、私行かなきゃならないから‥」エマは自分にしか聞こえない声に人前で反応しない方がいいと思い、咄嗟にその場を離れた。エマ!と自分を呼ぶ声がしたが、今はとにかくラウルの声が聞こえるのなら聞きたかったし何より彼と話したかった。謎の声は確かに言ってた。彼と自分はテレパシーのように離れていても意志の疎通が出来る‥話せるのだと‥何故なら二人は地球人ではなく、同じ火星人のタネを持つ仲間だからと‥
「まさかね‥」エマが否定すると同時にラウルの声が再び聞こえてきた。
「エマ、聞こえるかい?聞こえるなら返事してくれ!」やはり‥エマは驚くと同時に思わず叫んでいた。
「ラウル、あなたなのね!今何処にいるの?ケータイで話してる訳でもないのに、何故私達は直接話せるの?それよりもあなたは今、無事なの?」
矢継ぎ早に質問を繰り出すエマに対して、ラウルはあくまで冷静だった。
「僕は無事だよ!国は今洪水被害で大変だが、僕はみんなと被災者を助けて復旧に懸命に取り組んでる‥独裁政権の支配する側も今は国難だとわかってるのか、国民を助ける為に動いてくれてるよ!皮肉なもんだね、自然災害がきっかけで協力し合う事になるなんて‥」
「或いは助け合う人間本来の姿を、この災害を通じて地球事態が示そうと死たのかも‥」
その言葉はエマが意識しないのに、何故か自然と彼女の口から出たものだった。
ラウルはエマの言葉に少し驚いたようだったが、それよりも今は話すべき事があった。
「君も聞いたんだろう?僕らのルーツを‥僕達が火星人のタネを持つ仲間だということを‥そして僕達の地球人としての命が近く尽きるかもしれないという事を‥」
ラウルは落ち着いた口調で普通なら驚いて絶句するような内容を淡々と話す。エマは何よりも彼のメンタルの強さに驚かされた。そして口を開く。
「私にも謎の声が聞こえたわ‥あなたと同じ事を言われた。」
「待って、声に出して言わなくていいよ、僕との会話は‥頭の中で思うだけで通じるようだから‥」「それって‥」
「正にテレパシーだね!声の言う通り僕達は本当に人間じゃないのかもしれないね‥」
「ラウル‥」
穏やかな声で信じられない事を平然と話すものだ、エマは半ば呆れながらそれでもラウルと話せる現実に少なからず喜びを見出していた。ラウルは静かに語り続ける。
「声は言ってたよね!我々と共に行かないかと‥安住の地を求めて宇宙を旅する本来の仲間と共に行かないかと‥」
「ええ‥私も言われたわ‥君達がこのまま地球人としての命を終えてしまうのは見てられない。だから君達に真実を話して一緒に行こうと誘ったんだってそう言ってた‥」
「それだけじゃない!」「えっ‥」
二人は驚く‥テレパシーでの会話に割り込んできたのは間違いなくあの謎の声だった。
二人共同時にその声を聞いている。ラウルもエマもやはり自分達には地球人には無い能力がある事を意識せざるを得なかった!
「聞こえた?」「うん、聞こえた。君もあの声に信じられない事を聞かされたんだろう?」
「ええ‥そしてこのままではあなたも私も命が尽きる‥幸せにはなれないのかな‥火星人として我々と共に行かないかと言われたわ。」
「僕もだ、同じ事を言われた‥」その時だった。又あの謎の声が不意に二人に直接語りかけてきたのだ。
「聞いて欲しい‥」「えっ‥」
「我々はこれまで地球人の知らない所で何度も地球の危機を救ってきた。核兵器の使用で世界戦争になれば、勝者も敗者も無く、確実にこの星は滅びる。人間だけでなくどんな生物も生き延びれない死の星となるだろう。それは人間もわかってる筈だ‥」
「ええ‥」その通りなのだ。声の指摘には二人共反論する術は無かった。声は更に続ける。
「地球が生き物が住める奇跡の星になったのは、決して人間の為ではない。然し愚かな地球人は傲慢になり、まるでこの星の主のように振る舞う。確かに自然災害は起きるが質素でも穏やかに約しく生きていけばこの星は間違いなく宇宙のオアシスといえるだろう。だが地球人は絶えず争い、強者は弱者を助けようともせず奢れる者は享楽に耽り奇跡の星に生を受けた有難さが全くわかっていない。今度この星にどんな危機が訪れようともう我々は助けない、助けるつもりも無い。だからこそ仲間である君達を誘うんだ。我々と共に行こう!」
「地球を見捨てて?」
いつの間にか謎の声と普通に会話しているエマとラウル‥だがもう二人共このあり得ない状況を否定するつもりは無かった。そんな余裕も無かったし‥だが愛する家族がいて地球人として育った年月、その記憶がある以上簡単に異星人である事を受け入れ共に行く等と言えないのも事実だった。
「あなたの言う通り彼女と僕があなた方と同じ火星人だとしても、僕達には人間としての家族がいる。僕も彼女もその家族が今、窮地に立っている。家族との絆はそう簡単に断ち切れるものではない。あなたは先程人間は愚かで傲慢だと言ったが、それは間違ってはいないだろう。ただ全ての人間が決して愚かというわけではない。助けを求めている人達を我が身を犠牲にしても救おうとする人間がいることも事実だ‥そしてこの星に生を受けたありがたさを自覚して毎日をただ只管懸命に生きる人間も決して少なくない。」
「ならば‥ならば何故、この星から戦争が無くならない?争いが無くならない?失われるのは決まって傲慢な人間ではなく、普通なら救われるべき弱者の命ばかり‥」
ラウルの反論に謎の声は珍しくいつもの冷静な口調から感情を高ぶらせて切り替えした。
彼らには自分達と同じようなまともな感情がある‥エマはそう感じると何故か不思議にホッとするものを感じるのだった。
「確かに‥確かにそう問われれば返す言葉が無い‥」
「ラウル‥」エマはラウルの項垂れる姿に複雑な思いを感じた。人間には悪人もいるが善人もいる。人間社会はそう簡単に割り切れるものではない。そうとしか‥
口にしなくても考えている事は伝わるらしく、声はエマの思いに応える。
「確かに簡単に割り切れるものではないだろう。善人だけが住んでいる宇宙のオアシスの星‥地球がそうあれば良かったのだが‥」
「人間はそう単純には出来ていないわ。愛情があれば思想信条の違いによって初めて会う人にも憎しみを抱く事もある。利害によっても人間は争うしね!」
地球人を余りにも理想的に見ているのではないか‥現実はそう甘いものではない。エマは思う。独裁者と陰口を叩かれながら必死に祖国の為に働いてきた父エステバン‥兄リカルドもそんな父を懸命に支えている。軍のクーデターが起きて今苦境にある自分の大切な家族、そして亡くなった母‥優しい人だった‥ラウルだって大切な家族がいる。今自分と同じように苦境にある筈だ。たとえ声の言う通り自分の根源がこの星でなくとも、自分がこの星を離れることは無いし絶対に出来ない。異星人として宇宙を旅する仲間と共に、安住の地を求めて旅立つなど夢のような話‥ラウルもエマと同じ気持ちらしく、ゆっくり口を開く。
「僕の国ではその日暮らしの貧しい人達が、今過酷な自然災害で更に命の危機に晒されてる‥そりゃ腹も立つよ!人間ていうか球人にはいい奴もいれば悪い奴もいる。何故悪い奴だけに罰が下らないかと、今度の大雨だってそうさ!余りに理不尽な現実を受け入れられない事も多い。傲慢な奴らは言う事を聞かない国民というか弱者を脅せば言う事を聞かせられると勝手に思い上がってる‥人間は決してロボットじゃないのに‥」
「ラウル‥」ラウルはエマを見ながら更に続ける。
「あなたの言う事をすんなり信じろという方が無理だが、でも今の僕にはあなたの言葉が100%嘘だと思えない事も事実だ。この美しい星を自らの愚かさ故に傷つける地球人がいるのも事実、然しだからって僕達がこの星を見捨てる事は無い。たとえこの先、どんな運命が待っていようとも‥」
「短い未来に二人共死ぬ運命だとしても?」
「ああ‥」声の非情な宣告にもラウルはたじろぐ事なく淡々と答えた。
エマもラウルの決意に呼応するように口を開く。
「私も窮地にいる父と兄を見捨てて故郷から、この星から離れる事は出来ないわ。祖国どころかこの星から離れるなんて余りにも突拍子もない話、普通なら信じられないけど実際ここにいるのは私一人、それでいてあなたと近くにいないラウルと普通に会話してる‥私達が地球人とは違うんだって嫌でも痛感せざるを得ない。」
エマの言葉にラウルも相槌を打つ。
「僕も同じ気持ちだ。この世界が余りにも危機的なのはある意味事実だと思う。今この星で何の危機感も無く毎日を穏やかに過ごしている幸せな人間も決して少なくないだろう。だが何の罪も無いのに生まれた時から飢餓や貧困等と生きていく為に闘わねばならない運命にある者も決して少なくないのも事実だ。理不尽だと思う‥」
「そんな思いが憎しみを生み戦争へと繋がり核という決して作られてはならない最終兵器の誕生に繋がった。」
ラウルの言葉に声は思いがけず核という言葉を口にして反応した。それはラウルやエマにとっては思いも寄らない事だったが、一度この星を核戦争による破滅から救っている彼らにとっては当然の事かもしれなかった。
「核‥人間はいずれ核戦争によって自ら滅びると?」
「もう既に一度、核戦争は起ころうとした。我々が我々の力で何とか食い止めたが‥」
「えっ‥」「まさか‥」
驚くばかりの二人に、声は更に落ち着いた口調で続ける。
「勿論地球人は全く知らない事です。地球人の愚かさに落胆した我々はその時もこの地球上で暮らす我々の仲間にこの星を離れようと言ったのだ。」
「そんな事があったなんて‥でも核兵器は二度も地球上で使われて日本という国で多くの人達が犠牲になってる‥」
「ああ、我々も地球人がそこまで愚かだとは思っていなかったからな。だが次の独裁者の暴走は我々が秘密裏に阻止した。核のボタンを押してしまった愚か者を我々の力で駆逐したが、同時に我々の落胆は大きかった。そして地球という楽園で生きていける意義も理解せず、平気でこの星を傷つけるような争いを起こす地球人に失望して我々が宇宙に旅立つ時にこの星に残していった我々の仲間、火星人のタネを持つ地球育ちの仲間にもうこの星を完全に見捨てて我々と共に行こうと誘ったのだ。だが多くの仲間は我々の誘いを拒否して愚かな地球人と共に人間として生きていく事を選んだ。君達もそうか?」
「でも私達は人間として生きていく以上死んだらお終いでしょう?この先私とラウルにどんな運命が待ってるにしろ、死は誰にでも訪れるんじゃない?」
エマの問に声はまたしても信じられない言葉を言い放つ。
「どんなに地球人として生きようとしても君達は間違いなく我々の仲間の火星人だ。我々にとって死とは通過点に過ぎず、我々と同じタネを持った君達はそう長くない時を経て又地球人として生まれ変わることになる。」
「まさか‥」「魂としてではなく?」
「地球で言う宗教上生まれ変わるという事では無い。全く違う‥」
声の返答にエマもラウルも言葉を失う。やがてラウルが冷静な口調で声に尋ねた。
「君の言うことが真実だとしても、何故僕達には異星人としての記憶が無い?それに僕達は有史以来この星で何度も生まれ変わってきたということなのか?」
「君達の記憶を戻す事は出来るが、私にその権限は無い。君達の存在は我々が火星に住む事を諦めて宇宙に旅立った時期に遡る。」
「記憶を戻せば全てを思い出す?」
ラウルの問に声は静かに答える。その内容は果てしない二人の生まれ変わりの歴史だった。
「その通りだ。地球人の寿命で何度も転生を繰り返したその記憶が洪水のように君達の頭に溢れるだろう。それは君達だけでなく、この星で今地球人として生きる全ての火星人‥我々の仲間に言える事だ‥」
「この星にいる仲間‥みんなは‥どうするんでしょうね‥」「ラウル‥」
普通ならとても信じられない話なのに達観したように受け入れるラウルの静かな口調にエマは彼がもう迷ってなどいない事を思い知った。そしてラウルは、やはりエマが考えた通りの言葉を口にするのだった。
「僕はこれからもこの星に残り、地球人として生きていきます。たとえこの先死が待ち構えその後永遠に生まれ変わる事になろうとも‥火星人としての意識も味わいたい気持ちはあるしあなた方仲間と呼べる人?達にも会いたい気持ちはあります。でも僕は地球人として生きる道を選ぶ‥そんなに簡単に割り切ってこの星を捨てる事は出来ない‥」
「私も!」すかさずエマも声を上げていた。
「私も、故郷を見捨てる事は出来ない。あなたの言う通りこの美しい生命を育める星がどれだけ奇跡の星かもわからず、愚かな事をする地球人も少なくない💢あなたの怒りは最もだと思う。でも美しい心を持ちこの星でどんな過酷な運命が待とうと、人として懸命に生きている地球人も多くいます。そんな地球人の存在も私は忘れたくはないの!」
「結局、争いは生まれてしまうなんだよなあ‥これだけの人間がいても一人一人違う人間なんだから‥」
ラウルは呟く。姿は見えなくてもエマにはラウルの思いが痛いほどわかった。
その通りなのだ。人‥というか地球人はそうシンプルには出来ていない。一人一人異なる思いを抱き異なる夢を持つ。その末に起こる諍い、争い‥育った環境によって人として大切な優しさや思いやりといった感情を持つ事なく冷酷な悪人そのものになる人間もいるし、自己犠牲の上に他人の幸せがあってもそれを当然視して全てを受け入れてその生を終える、人間世界で言う神様のような人もいる。自分も今の立場を捨ててこの星を離れる事など出来ない‥そう思うだけで口にしなくても声はエマの気持ちを理解したらしく、諦めたように静かに二人に語りかけるのだった。
「私は以前君達と同じように、この星で地球人として何度も生まれ変わりながら生きてきた。近くに仲間はいた。その時私は地球人でいう男近くにいる仲間は女だった。彼女には記憶が無かったが、私は仲間との連絡を取るリーダーの一人だったので記憶はあった。我々は有志以来何度も生まれ変わってその都度、違う立場で彼女と巡り会って生きてきた。だが思いがけず仲間が一人独裁者が暴走に走り核戦争の危機が引き起こされようとしたこの星の破滅を止めて、その欠員をうめる為に私は仲間の元に呼び戻される事になった。悲しかった。大切な仲間がいるこの星から離れたくなかった。地球人の立場で言えば、彼女は間違いなく恋人と言える存在だったから‥でも命令に逆らう事は出来なかった。それでも君達と同様に私もこの星を愛している。然し奇跡の星である地球で生きていける有り難さ等微塵もわかろうとせず、欲望のまま生きる悪人も多くいるのが現実だ。核戦争は滅亡に繋がるとわかっていても核兵器を作り出すのが地球人‥憎みあわずにその日その日を助け合って穏やかに生きていける、地球は宇宙のオアシスのような星なのに‥」
声の回想にしっかり頷くエマ‥ラウルも多分思いは同じだろう‥
やがて声は説得するのを諦めたのか、静かに二人に別れを告げるのだった。
「私はもう行かなければならない。本当は君達に接触するのは許されないのだが、君達の境遇が見ていられないものだっただけに黙ってはいられなかった。私はこれからルールを破った罰を受ける事になるが、それでも君達地球人としてこの星で生きている仲間の事が気掛かりでならない。」
「そんな!罰だなんて‥」「どんな罰を受けるんです?まさか‥」
「私の事は気にしなくていい!」
声は罰を受けると聞いて心配するエマとラウルの言葉を激しく遮って続けた。
「火星人のタネを持つ君達はそれぞれの人生を不遇な形で終えようと、又生まれ変わりこの星で地球人として生きていく事になる。お互いがお互いを知らぬまま嘗ての私と私が愛したこの星でのパートナーと同じように永遠の巡り会いを続ける事になるのだが、それでもいいのか?本当の仲間である我々と永遠の楽園となる星を求めて旅立たないか?我々は地球人のように自らが破滅に陥るような愚かな事はしない。その意味では地球人よりかなりうーん、上級というか、良識のある異星人だ。」
「良識のある‥異星人?」
真面目な話をしているのにその言い方がユニークで、エマは思わず笑ってしまった。ラウルは何も言わなかったが、エマの笑い声が結局声の主の覚悟をしっかり固めたようだった。
エマは去ろうとしている声の主に向かって優しく声をかける。
「ありがとう、私達の事をそこまで心配してくれて‥普通なら何馬鹿な事言ってるのって撥ね付ける人が殆どだろうけど、実際地球人には無い能力で私達は近くにいないのに会話出来てる‥信じるしかないしあなたはいい人それはわかる‥否いい火星人って言うべきか‥」
「いい仲間って言って欲しいね。」
それが声が残した最後の言葉だった。仲間との最後の別れだと直感したエマは思わず「さようなら!」と声に出したが、もう返事が返ってくることは無かった。
「ラウル‥聞こえる?」心が締め付けられるような寂しさに苛まれるように、エマは思わずラウルに声をかけていた。ここで彼と話せなければ、自分はやはりきっと後悔する事になる。自分とラウルの未来にどんな運命が待ち構えていても‥と‥ラウルの声がした。
「聞こえるよ!近くにいなくてもこうして君と話せてる。どうやら彼の言う通り僕達は地球育ちの異星人というのは真実のようだね。」
緊張の糸もないようなラウルの穏やかな口振りだが、それだけにエマは却って自分達の未来に暗雲が立ち込めているのを意識せざるを得なかった。とにかく今は最も聞きたかった事を聞く。「あなたは今大丈夫なの?命の危険が無い状態なの?」
エマの問にあくまで穏やかな口調でウルは答えラるが、その内容はやはり厳しいものだった。「正直に言えば厳しいとしか言い様の無い状態だね。大洪水の被害からみんなを救い出すにしても、一方で国民の命等軽視して反政府勢力?を捕まえることに独裁者は躍起になってる‥僕も狙われてるよ、しっかり‥」
「そんな‥洪水被害で国民が辛い目に遭ってるっていうのに何考えてるの?本当にあなたの国の独裁者、愚かな人達だわ!」
怒りに駆られて発した言葉だが、声との会話で確か同じような言葉を発したのをエマは思い出していた。そして思わずラウルの身を案じ無事を祈るエマだった。
「彼は私達には死が近づいてるような事言ってたけど、やっぱりあなたには無事でいて欲しい‥生きて再びあなたと会いたいから‥今のこの人生で‥あなたと‥」
エマのラウルを想う言葉にラウルも感情が込めて応える。
「僕も無事にこの苦境を乗り越えて君に会いたい。君の所に戻りたいよ‥その平和に暮らせる場所に‥」「ラウル‥」
「エマ‥」謎の声と別れラウルと話せたのもそこまでだった。そしてラウルの声もいつしか聞こえなくなった。然しエマに落胆している時間は無かった。家族の安否も気になる‥彼に会えないまま祖国への便に飛び乗ったエマだったが、その便は心配されていた通り政情不安のエマの祖国まで彼女を運んではくれなかった。中途半端で降りる事になった地に立ったエマは、涙が溢れるのを堪える事が出来なかった。父と兄、そして勿論ラウルの安否も気になるが自分にはそれを知る術も無い。本当に人間とは無力だ‥失望感と共にエマの心に湧いたのは奢ること無く謙虚に質素に生きていけばこの星は楽園、本当の宇宙のオアシスになれるのにあくまで争いを止めないこの星の人間‥一部の人達への怒りだった。
「痛い目みないと自分達がどれだけ恵まれてるか、自覚出来ない人間も多い。だけどこの星に生きる真の価値を見出し一日一日を懸命に生きてる人達も確かにいる‥」
エマは今自分がどうすべきかわからず途方に暮れたが、とにかく元居た場所に戻るしかなかった。それから半年が過ぎエマはニュースで父と兄の苦境がやっと解消されつつある事を知った。エマの方から手紙を出しても届かず、エマの身に危害が及ぶのを恐れてか二人から連絡が来る事も無かった。独裁政権と中傷されていた筈の父だが。その政策の根底には国民の幸福がある事を理解してくれていた国々のトップが軍に父と兄を自由の身にするように申し入れたという。更にエマを驚かせたのは父を突然拘束し軍政を敷こうとしていた軍のトップへの国民全てが参加したような激しい抗議行動だった。政治姿勢は厳しかったが決して我欲に基づくものではない。国民全体の幸せの為‥そんな父の姿を国民はちゃんと見てくれていたのだ。
「ありがとう、みんな‥」
涙が止めどなく溢れ、そしてラウルの事も思った。あとはラウルさえ無事に帰ってきてくれたら‥だがあれから半年経つのに、ラウルの声を再び耳にする事は無かった。
何も出来ないままそれから更に一年近く経った週末の午後、ラウルとの再会は突然果たされた。それまでエマは一度は帰国し父と兄に会う事は出来たのだが、ラウルとの再会は未だに叶わないままになっていた。父と兄は軍の幹部を一人政権に受け入れる形で何とか今までの政治形態を保っていけるようになったのだが、やはり今までと違って緊張を強いられる場面が増えているという。それでも父には父を慕ってくれる多くの国民がいる‥力強い味方に支えられて父と兄は祖国で頑張ってくれていた。あとはラウル‥ラウルに会いたい‥彼に会う事さえ出来れば‥祈るような思いで毎日を過ごしていたエマに、その時は突然訪れた。だが、それは同時に謎の声が暗示した二人の暗黒の未来の訪れを示すものだった。
その日、いつもの平凡な一日になる筈だったエマの携帯にかかってきた、ラウルからのいきなりの電話‥「エマ!エマ!」
「ラウル‥ラウルなの?」信じられない思いのエマ、声が一段と高くなる‥夢じゃないよね?自分で自分に問い掛ける。然し携帯から聞こえる声は確かにラウルの声だった。
「今何処にいるの?大丈夫なの?」自然に声が涙声になる。そしてラウルの返事は、エマを更に喜ばせるものだった。
「大学の近くにいるよ!やっと帰って来れたんだ‥」
「そうなの‥良かった‥」エマの目に思わず涙が溢れる。そんな彼女にラウルは自分がいる場所を話し其処に来てくれるように頼んだ。あまり聞いた事の無い建物の指定にエマは少し戸惑ったが、今から直ぐ言われた場所に向かうと答えた。ラウルの声は確実に緊迫している。
「其処は僕達の仲間が集まる場所、言わば僕等の隠れ家だ。君を呼び寄せて大丈夫か不安はあるんだが、それでも君に会いたくて‥」「私だって‥私だって‥」
エマは携帯でラウルが告げた場所を検索し、足は既に歩きだしていた。だが二人の再会は一発の銃声によって引き裂かれたのだった。
「こういう事だったのね‥二人の未来には悲劇が待ってるって‥私も撃って‥ラウルがいない未来に未練は無いわ‥」
隠れ家にいるラウルのメンバーもたった数人の狙撃手が狙う。やっと、やっとラウルに会える所だったのに‥背中を撃たれエマの腕の中でぐったりして動かないラウルを見ながら、エマはどうにもならない程の強い絶望感に浸っていた。外ではテロを疑う大声や怒声が響き渡っていた。と‥その時だった。いきなり二人を闇が包みどこからともかくあの声が聞こえてきたのだ。「君達を一旦我々の元に引き取る。君達の意志がどうあろうと我々と同じ火星人のタネを持つ仲間である君達の窮地をこれ以上無視する事は出来ない。」
「あなたは?」エマとラウルをずっと説得していたあの声と同じ人物なのか‥何となく違う気がする。だが、今のエマに答えが出せる訳がなかった。
「エマ‥」怪我をして血だらけのラウルが苦しそうな声でふとエマに語りかける。
「ラウル!ラウルしっかりして!あなたと久し振りに会えて嬉しかった‥もう少しであなたとハグ出来る所だったのに、あなたは狙撃された‥どうして?どうして人は争うの?穏やかに生きていこうとすれば出来る筈なのに‥」
「それが彼らの言う地球人の愚かさなのかもしれないね‥」
「ラウル‥」そして二人を包んだ闇は少しずつとけていったが、その闇が無くなった時そこに二人の姿は無かった。
エマとラウルの姿はその後この地だけでなく、地球上で見られることも無く二人はそれぞれ肉親や仲間からは失踪したものとされ、二人を知る人々の記憶から二人の存在は消えていった。二人がその後どういう運命を辿ったのか、地球人には知る術も無かろう。ただ地球上で生きる生物の一つでしかない人間は理解すべき‥人間がこの星の存在意義をちゃんと認識して地球がどれだけ恵まれた星か自覚出来て暮らしているか宇宙からの視線はいつも注がれていることを人は思い知るべきである。エマとラウルが何処にいても幸せである事を信じて‥(了)