絆ー遥かなる祖国

 つい最近まで殺人的かと思える程の厳しい暑さが続いていたのに、季節は早いものでいつ終わったかわからない秋を飛び越しいつしか冬の様相を呈している。

「旭、受験勉強順調に進んでるの?」来年は高校を卒業するその年の暮れ、久しぶりに家を訪ねてきた伯母が今旭にとって最も耳に痛い言葉を発した。「あっ‥う、うん‥」

気の無い返事に母が諦めたように自分に変わって返事する。

「それがね、義姉さん‥この子大学に行くつもりはやっぱり無いらしいのよ。まああんまり勉強も出来る方じゃないし、スポーツなら人一倍得意なんだけどねえ。でも体育会系の大学だってそれなりに勉強も出来なきゃいけないでしょう?それでこの子ねえ、出来れば自衛官になろうかなって言ってるの。」

「まあ!」何勝手に話してるんだという怒りと共に、伯母の戸惑った表情が旭を何とも言えない気持ちにさせた。いつもそうだ。伯母の弟、つまり旭の父も父の父である旭の祖父も何故かしら自衛隊を軍隊と同一視し目の敵にしている傾向がある。だからこそ旭が自衛隊に興味を持つきっかけになったとも言えるが‥そう思ったらいつもはそう反論しないのだが、納得出来ない旭はその日は敢えて口を尖らせてみせた。

「体力には人一倍自信がある僕が国家公務員である自衛官になったって何もおかしい事は無いと思うけど?どうしていつもそんな変な顔するの?」

「えっ‥?」必ずと言っていいほど反論する事の無かった息子がいきなり口を尖らせた事に驚いて母と伯母は何とも言えない顔をする。旭はそれが一層腹立たしく思えていつも考えていた事を続けた。

「自衛官という仕事は日本人として十分誇りを持てる仕事だと思うよ。今働いてる現役の人達も国を守るというこの仕事に立派に使命感を持って務めてる。人一倍体力が必要らしいけど、僕は頭は弱くてもそっちの方には自信があるしね!」

「でも旭‥」「曾おじいちゃんの事?」

二人が口を開く前に旭は幼い頃から折に触れ、よく聞かされていた曽祖父の事を口にした。旭の父方の曽祖父は、太平洋戦争に従軍し場所は忘れてしまったが、終戦時は一時南方で米軍の捕虜となったらしい。生きて終戦を迎える事が出来るようだと漸く届いた最後の手紙には記されていたので、妻であるまだ乳飲み子だった祖父を抱えた曾祖母は、一縷の望みを抱きながら懸命に夫の帰還を待った。だが、いくら待っても夫は帰ってこなかった。戦死の通知も届かず戦後の食糧難の時代、頼れる人も無く幼子を抱えて女性一人で生きていくのは容易な事ではなかった。結局勧めてくれる世話好きな人の仲介もあって、曾祖母は日本人帰還兵と再婚したのである。

だが、曽祖父は戦死したものと思い込んでいた一家を更なる衝撃が襲った。後日‥もうその時には曾祖母も祖父にとっては継父にあたる日本人帰還兵も亡くなっていたのだが祖父と腹違いの弟や妹が、ある日偶然知り合った人から信じられないう話を耳にしたのだった。何と死んだとばかり思っていた曽祖父が、その後インドネシアで生きていたというのだ。しかもインドネシア人となり‥家庭を持って‥

勿論曾祖母は出征した夫の行方を当時あらゆる手段で探した。多くの日本人を乗せた船が何処そこに着いたというニュースを耳にする度に幼い祖父を背負いどんなに遠い場所でも血の滲むような思いで曾祖母は駆けつけた。それでも乳飲み子に父親の姿を見せる事は出来なかった。そして辛い思いで現実を受け入れ諦めて周囲の人達の勧めもあって再婚した曾祖母はその後次子も生まれ穏やかな生活を送った。そして天寿を全うしたのに今になって何故‥?

「兵隊なんぞ碌なもんじゃない!日本は愚かな戦争をした本当に愚かな国だ!」幼い孫の前でもよく腹立たしそうに言ってた祖父の口癖を旭はよく覚えている。そんな祖父に実父がインドネシアで戦後も生きていたらしいという驚くべきニュースをもたらしたのは祖父の腹違いの弟にあたる仁だった。祖父にとっては継父だが仁にとっては実父である曾祖母の再婚相手が、何らかの伝手で彼の消息を探しあててくれたのだ。インドネシアで暮らしていたという事まではわからなかったようだが、だが彼はその事実をさすがに妻に告げる事は出来ず、迷いに迷った末息子にだけ話しこの世を去ったのだった。さすがに父に聞いた思いがけない事実を兄に話すべきか‥それこそ重い宿題を託された弟は迷いに迷った末敢えて話さない事を選んだが、だがその意志に反して立ち聞きという形で実の父が戦後もインドネシアで生きていたというショッキングな事実を祖父は知ってしまったのである。

「まさか‥そんな筈ないよ!母さんはあんなに必死に探したのに‥生きてれば僕達の所に必ず帰って来てくれる筈だって言ってたのに‥」

弟が終戦後間もない頃丁度インドネシアにいたという、亡き継父の知人から思いがけない事実を聞かされていた場面に運命の悪戯か偶然居合わせた祖父は、帰宅後当然その事実を否定した。祖父にしてみれば否定するのは当たり前過ぎる事だった。思ってもみない形で兄に知られ困惑した仁だったが、やがて決心したのか亡き父から託された重い宿題から決別するように静かに言葉を続けた。

「兄さんが信じられない気持ちはよく分かる。でもこれは信じられる筋から父さんが直接聞いた確かな情報だ。兄さんの実の父親は戦後も生きていた。それを聞いた父さんも母さんに話すべきか随分迷ったそうだ。」

「仁‥」弟に当たるのは筋違い‥それがよくわかっている祖父だが、やはり彼は腹立たしい気持ちを抑える事は出来なかった。そんな兄に弟は静かに続ける。

「終戦時兄さんの家は空襲で焼け、疎開してたんだろう?もしかしてうまく連絡が取れずに兄さんの父さんは、家族がもう空襲でみんな死んだものと絶望して嘗て身を置いていたインドネシアに戻ったんじゃないかなあ‥」

「何故インドネシア?」祖父の問に仁は更に思いがけない事実を口にする。

「終戦後インドネシアは日本軍が撤退し独立を宣言した。他のアジア諸国も同じようなものだが欧米の植民地だったのが、次々独立を果たしたんだ。勿論旧宗主国はそれを許さず日本の奮闘によって芽生えた独立の機運を抑え込もうとした。で‥起きたのが独立戦争‥インドネシアを再び支配しようとしたオランダとの間で戦争が起きた。どうも兄さんの父親はその戦争に参戦したらしい‥」

「それは‥確かなのか?」死んだとばかり思っていた実父の思ってもみなかった戦後の消息を知り、呆然とするばかりの祖父だったが、弟の仁は力強く頷く。

「父さんは何度も確かめたが、事実と言う事だった。戦後日本では殆ど国民には知らされてこなかった事だけど、欧米の植民地だった国々に独立の機運が高まって次々に植民地にしてた国との間で独立戦争が起きたんだ。折角生き延びた命をその戦争に捧げた日本兵も、決して多くはないけど間違い無く存在した。命を捧げた彼らは英雄視され、その国の墓地に葬られてる日本兵も多くいる。兄さんの父さんが葬られてるのかどうか、そこまでは分からなかったそうだ。」

「でも何故、何故祖国に帰らずに異国での戦争に参加するんだ?家族に会いたいだろうに‥何よりも祖国の地を踏みたかったろうに‥」

まだ母のお腹にいる時に出征し写真でしか見た事の無い父‥父だって無事に生まれた我が子に会いたかった筈だ‥祖父がそう思うのも無理ないことだった。然し弟は父から聞かされていた当時の祖父の実父も含む日本兵の事情をしっかりとした口調で話し続ける。

「父さんの話によれば帰っても身内が空襲で全て死に絶えて、祖国といえど生きていく気力を失った者、又帰国すれば戦犯として裁かれ兼ねない立場にあった者、色々な事情があったらしい。母さんは戦争が激しくなった時、兄さんを連れ知り合いを頼って疎開してたそうじゃない?住んでた家は空襲で燃えてしまったそうだし、行き違いになって母さんも兄さんも死んだものと諦めたのかも‥」

「そんな‥」祖父は絶句した。だが今となっては真実は分からないし知る術も無い。ただ亡き母の遺影に目をやり、母に語りかけ静かに手を合わせるしかその時の祖父には成す術が無かった。その後祖父は誰よりも戦争を憎み、これからの日本で決して戦争を起こさせない為に教師の道を選んだのである。

そして祖父の戦争を憎み戦争への道を歩んだ日本を否定する気持ちは、戦後GHQによって押し付けれた自虐史観教育によってより強固なものとなっていった。自衛隊や日本に駐留する米軍に厳しい目を向け、彼らの活動する目前で人殺しの為の訓練は止めろとか、戦争反対とシュプレヒコールを上げる‥教員という立場でのそういった行動は公務員として問題だという声もあったが、そんな声を庇って余りある勢力が戦後の日本には確実に存在した。日教組や戦後の大手メディアや有識者の言論は、戦後一貫して日本の戦争責任を問うものばかりだったと言える。確かに自らの非を認め反省しその思いを未来に生かす事は大切な事だと言えるだろう。日本が戦後世界から好意的な目で見られるようになった一因は、自らを反省し敗戦国民として必要以上に謙虚さを身につけ弱者に寄り添える国民性を持ったからだとも思える。だがその態度も度を越えれば決して国益に繋がらない現実を現代の日本人は身に沁みて感じているのではないか‥幼い頃から日本の戦争責任だけを批判し続けてきた祖父の言葉を聞かされてきた旭には、そう思えてならなかった。それは祖父の息子であり旭の父でもある和憲も感じてきた事かもしれなかった。旭という名前は日本軍が使っていた旭日旗の一字である。可愛い孫が生まれた時、旭という命名にとんでもないそんな名前をつけるなんてと反対した父に反発し和憲は、自分の意志を決して覆そうとはしなかった。

「旭日旗は今の日本の防衛を担う自衛隊も使ってるよ!自衛隊は日本の国防を担う重要な存在だよ!父さんは日本の戦争責任ばかり言ってるけど、これからの日本をどのように守るか‥未来を生きるこの子達の世代にはその事の方が余っ程大事な事なんじゃないの?」

嘗ては和憲も祖父の影響を受け自衛隊に否定的な考えを持っていたが、時代の流れと共にその思いも変わってきたようだ。息子の言葉に祖父は正面切って反論出来なかった。祖父はかねてから自分の息子である和憲にも自分と同じ教師の道をえらんで欲しいと願っていたが、和憲はそんな父を嫌って普通のサラリーマン、会社員として生きる道を選んだ。更に父と息子の間に親子の亀裂を生じさせる出来事が起きた。それは普通なら喜ばしい事として誰からも祝福される筈の事だったが、戦争を嫌い自衛隊を軍隊と同一視して嫌っていた祖父にとってはなかなか受け入れ難い事実だった。和憲が愛し妻に迎える決意をした女性‥旭の母となった雅代の父親の職業は祖父が嫌う自衛官だったのである。二人が知り合い付き合うようになったのは、同じ会社で共通の趣味を通じてで全くの偶然だったのだが、雅代の父親が自衛官だという事実を知り確かに和憲は最初戸惑いを覚えた。勿論職業で人を差別することなど、戦後の日本では許されない事だった。だが敗戦の傷がなかなか癒えなかった日本では、まだまだ戦争や軍隊を連想させるような自衛隊に対しては拒否感が強かった。彼らの行動する場所に付きまとい人殺しの訓練は止めろとか、日本から戦争を起こす訳でもないのに戦争反対の横断幕を張ったりする団体が多く、祖父も時折その活動に参加していたのだ。自衛隊がどれだけ日本の為に働いているか、その貢献度がまだまだ国民には浸透していない時代だった。でも和憲は強い信念で父に結婚の意志を伝え、結婚しようとする相手の親が自衛官である事実を正直に伝えた。自分の人生は自分で決める。父がたとえ反対しようと‥その意志は確固たるものだった。

息子から結婚しようと思ってる女性の父親が現役自衛官である事を聞かされると、祖父はしばらく目を閉じ黙して動こうとしなかった。心の葛藤と必死に闘ってるのだ‥和憲には父の戸惑いと苦悩が手に取るようにわかったが、かといって自分の決意を変える気などは毛頭無かった。やがて祖父は静かに口を開く。

「お前の人生はお前のものだ。相手の親の職業によって私が反対すれば、それは私が人を不当に差別した事になる。子供達に正しい生き方を教える教師としてはそれは間違っていると思う。だから正面切って反対はしない。だが、教師という立場を離れて一人の人間として考えれば残念という気持ちは消えないしお前が家庭を持っても、お前の奥さんとなる女性やその親族と深い付き合いを私はしようとは思わないだろう。それで良ければ勝手にするがいい‥」「父さん‥」

戦争を憎みたとえ自衛隊そのものに厳しい目線を向けていても、祖父は根っからの教師だった。自分の感情より他人への気配りや社会正義を優先すべき‥そんな信念をずっと抱いて生きてきた祖父は、宣言した通り息子夫婦が結婚した時も型通りに出席し夫婦や新たな親族が挨拶をしに来た時も型通りの受け答えしかしようとしないかった。だが孫は‥?旭は幼い頃から母方の祖父母にはよく会いに行くものの、父方の祖父母にはなかなか会いに行かない現実を子供心に不思議に思っていたのだ。旭自身は勿論知らなかった事だが、彼の名前の由来についても親子の諍いがあった事を彼自身は知る由も無かった。

雪解けは必ずくる‥和憲はずっとそう信じていたが、やがて思いもよらない形で旭の家族をある衝撃が襲う事になる。そして永遠に断ち切られたと信じて疑わなかった絆がもう一度結ばれる事に繋がるのだが、それを旭、そして祖父、和憲達彼らが痛感出来るようになるまでまだまだ時間が必要だった。

「旭、お前、高校を出たら進路はどうするんだ?大学へは行かないのか?」

以前高校三年生になったばかりの時、父から発せられた問に旭は今の自分の思いを素直に口にした。

「僕は尚徳おじいちゃんと同じ職業に就きたい。自衛官になりたい!というかなるつもりだよ。」

「旭‥」息子の希望を聞いた時和憲は驚き一瞬戸惑ったような表情を見せたが、直ぐに戸惑いの表情は消え、そうか‥と一言だけ答えた。尚徳おじいちゃんと言うのは母方の祖父の名前であり、旭はとにかく温厚でよく孫である自分を可愛がってくれたこの祖父が大好きだった。特に防衛大出のエリートとして一部隊をまとめる厳しい立場にあった人物とは思えない程の人当たりの良さは、旭に祖父の後を継ぐ形で自衛官になろうと決意させるのに十分だった。

だが尚徳は自衛隊を嫌っているもう片方の親族である祖父の気持ちを思いやって、旭の決心を聞いても複雑な表情を浮かべるだけだった。勿論なぜ祖父が自衛隊を嫌ってるかその経緯は和憲から聞いて知っているものの、そんな尚徳の戸惑いを払拭するように旭は元気に言い放つ。

「大丈夫だよ!きっとわかってくれるよ!僕の人生は僕のものだし、別にもう一人のおじいちゃんに尚徳おじいちゃんが気を使う必要は無いよ。」「旭‥」

「僕はそんなに勉強は得意じゃない。だから防衛大受験は無理だろうけど身体は人一倍丈夫だし体力なら誰にも負けてない。甘い世界じゃないだろうけど、とにかく頑張るよ!だからお祖父ちゃんもちゃんと応援しててね!」

「旭‥」尚徳は頼りになる元気一杯の孫息子に元気をもらったのか、しっかり笑顔を見せてくれた。然しこの後クレアという初老の謎の女性の出現によって、旭も両親もそして両方の祖父母も思ってもみなかった真実を知らされることになるとはその時は誰も知る由が無かった。

その日「旭、おじいちゃんから電話よ!」母の雅代が固定電話の子機を持って自分を呼ぶ。

「いないって言っといて‥」子機を持つ母の前で居留守等通じる筈もないのに、旭は敢えてそう答えた。又か‥正直言って孫の将来的への希望を聞いた時から、何度も何度も自衛隊に入る事を考え直すように説得し続ける祖父の態度に、旭は困り果てていた。(もう諦めてよ、僕の人生なんだから‥)そう面と向かって言いたくなる旭、それでも祖父を慕う気持ちは消えてはいなかった。特に父方の祖母である秀子のなかなか孫に会えない寂しさを含んだ笑顔は、旭を当惑させた。だが‥もう高校生活も終わりが近づいている。年が明け卒業式が済んだら自分は家を離れて集団生活に入る事になる。厳しい訓練が待っているのだ。頑張らねば‥旭が自分を鼓舞して強い意志を固めていたそんな年の暮れの事だった。旭の家に一通の手紙が届いた。それは、何とインドネシアから郵送された手紙だった。そしてこの手紙が戦争を通じてすっかり切れていたはずの親子の絆を取り戻すきっかけになったのである。

その日高校から帰宅した旭は、母の様子が少し変な事に気付いた。

「おい、母さん何かあったのか?父さんと喧嘩したとか‥」年の離れたまだ小学生の妹に尋ねるが、さあというだけで埒が明かない。車があるから父も帰宅している筈なのだが、部屋の方を見ても静まり返っている。「旭‥」振り返ると母の雅代が困惑した表情で佇んでいた。

「母さん、何かあったの?」息子の問いかけに雅代は最初は躊躇していたものの、やがて決心したように口を開いた。

「あなたにもちゃんと言っとくべき事だろうから話さなきゃね!それにしても‥戦後八十年近く経った今頃、こんな事を知らされるなんてね‥」

「戦後?」母の言葉から、旭は手紙の内容が祖父の父曽祖父に関するものだと推測した。曽祖父の事は以前に大叔父である仁から聞いた事がある。太平洋戦争が終わっても南方から家族の元に帰国せずに、そのままインドネシアに渡ってそこでオランダとの独立戦争に参加したとか‥その戦いで亡くなったのかそれともインドネシアで暮らし天寿を全うしたのか、そこまでは分からなかったが仁の実父である元帰還兵が調べてくれた事は、それなりに確証があり信頼出来るものだった。だが祖父は義理の父が調べてくれた事実を弟から聞かされると、却って怒りを爆発させ家族を見捨てた父と親子の断絶という境遇に我が身を陥らせた戦争を呪った。父はてっきり戦死したとばかり思っていた祖父であり母からもそう聞かされていただけに、その怒りは当然戦後の自虐史観教育と相まって戦争をした母国に向けられたのである。ただ継父とはいえ後に生まれた実の子供達と分け隔てなく育ててくれた継父には恩義を感じていて、それだけに彼が実父の消息を調べてくれた事には複雑な思いを抱きつつ何も言えなかった祖父だった。

「何を今更‥💢」封筒を開き二枚の便箋に綴られた文章に目を通した父の和憲は、やり切れないようにそれだけ呟くと天を仰いだ。

「父さん‥」何が書かれているのか聞こうとした息子を制し、母雅代は目で旭を連れ出した。

「母さん‥」暫く躊躇った後、一応大事な事は伝えておこうと戸惑う息子を前雅代が口を開く。その内容は戦後八十年近く経った現代を生きる旭にとっても衝撃的な内容だった。

「実はね向こうのNPO団体みたいな人達の支援で手紙の内容を日本語に訳して漸くうちに届いたらしいんだけど、向こうのおじいちゃん、尊一さんにはインドネシア人の腹違いの妹さんがいるそうよ。母親はインドネシアの方で、尊一さんに会いたがってるんですって‥」

「まさか‥」どういう事なのか‥父方の祖父である尊一に妹‥?訳が分からず母を見返す息子に、雅代は落ち着くように諭すと静かな口調で自分も目にした手紙の内容を語ってくれたのだった。

曾祖母の再婚相手、祖父の継父の尽力で戦死したとばかり思っていた父が生きていて、しかもインドネシアに渡りそこでオランダとの独立戦争に参加したという事までは祖父も弟から聞かされて知っていた。そしてその後曽祖父はかなり奮戦した末負傷、結局独立戦争はインドネシアの勝利で、この国は他のアジア諸国と同様旧宗主国であるオランダに植民地支配を止めさせ自ら独立を勝ち取るのだが、曽祖父は参戦した時の怪我が元でそれから六年後にインドネシアで亡くなったという‥だが妹がいるとは‥やはり父は母と息子、日本で只管自分の帰りを待っていた家族を裏切りインドネシアで新しい家庭を築いていたのか‥曾祖母と祖父の苦悩を思えば、、旭が非難したくなるのも当然だったかもしれない。だが雅代はそんな思いに駆られる息子に強く首を振り続けた。

「尊一さんのお父さんは一度は帰ってきたそうよ!手紙にはしっかりそう書いてある。でも家は焼け住んでた場所一帯が空襲に遭ってた。それでも諦め切れずにかなり二人を探したってそう書いてあったわ。」

「探した?誰が言ってるの?ひいおじいちゃんのインドネシア人の奥さん?」

「旭‥」曽祖父にインドネシア人の妻がいたとしても今生きている筈もない。だが祖父の妹がいるということは母である女性、つまりインドネシア人の奥さんがいるって事じゃない?何となくもやもやした気持ちを抱きながら旭は口を尖らす。だがそんな息子に雅代は強く言い放つのだった。

「あなたに戦時中、そして戦後の混乱を生きてきた当時の日本人の何が分かるの?訳してあるそのままの文面じゃないけど、私にはそれを書いた尊一さんの妹だという彼女の気持ちが少しは分かるわ!」

「母さん‥?」いつもは穏やかな母の表情が珍しく険しいものに変わっている。雅代は最初躊躇っていたが、戸惑う息子を前にやがて静かに口を開き、旭が知らなかった思いがけない事実を口にしたのだった。

「シベリア抑留の事はあなたも学校で習ったでしょう?実はうちの家族も無関係じゃなかったのよ。父さんの父さん‥あなたのおじいちゃんの父親は戦後シベリアに抑留されたそうよ。極寒の地で厳しい労働を強いられながら生き延びて何とか日本に帰って来れたけど、帰国を夢見ながら遠い異国の地で死んでいった仲間が大勢いる。一緒に祖国に帰れなかった彼らの悔し涙を私は今でも忘れられない‥そう言ってよく涙してた‥父さんはそんなおじいちゃんから幼い頃よくその話を聞かされて育ったそうよ。」

「母さん‥」旭は母の言葉に戦後何十年も経って戦争とは全く無関係に育ってきた筈の自分が、実は人一倍戦争と関わりを持つ親族に囲まれて生きてきた事を知った。父方の曽祖父はインドネシアの独立戦争に参戦しそのままインドネシアで亡くなっており、母方の曽祖父は戦後シベリアに抑留され過酷な生活環境を生き抜き帰国出来なかった仲間の無念さを共に抱きながら何とか祖国に帰ってきた‥呆然とする旭を前に母の言葉は続く。

「シベリア抑留の辛すぎる体験をまだ子供だった孫に聞かせる事を娘であるお義母さん、私のお姑さんは嫌がってたけど尚徳さんはそんなお義母さんに隠れてでも聞いてたって!そして防衛大に受かり自衛隊という国を守る職業を選び曲がりなりにも多くの自衛隊員の上に立つ存在になった。結婚する前にお父さん言ってたわ。自分がこの職業を選んだのは日本を守る為に様々な苦難に立ち向かった多くの日本人、同胞である彼らの思いを踏み躙り戦後の日本ではそんな彼らの存在すら消し去ろうとしてきた。そんな現実が自分には許せないし、戦後一貫して悔しい思いをしてきただろう彼らの魂に報いるためにも自分は国防を担う仕事に就こうって、そう決心したんだって!」

「母さん‥」母は驚くばかりの息子に更に続ける。

「父さんの決意は間違い無くシベリア抑留から生きて帰って来た父さんの祖父、あなたにとっては曽祖父の思いを受け継いだものね。でもあなたまで自衛隊員になろうとするとは‥然しお父さんの方のご両親、特に祖父の尊一さんの方はあなたが自衛隊員になるのには反対してらっしゃるんでしょう?戦争で引き裂かれた親子の絆‥そのせいで戦争を憎んでられる‥更に戦死したとばかり思ってらしたお父様が生き延びてインドネシアの独立戦争に参戦し、その時の怪我が元で数年後に亡くなられた‥現地の女性との間に子供まで生まれて腹違いのインドネシア人の妹がいる現実‥直接手紙が尊一さんの所にいかなくて良かった‥でも父さんも母さんも正直この思いがけない手紙の内容をどうお義父さんに伝えれば良いのかわからない‥困惑してるわ‥」

母の戸惑った表情を目にしながら、旭は口を開く。

「ひいおばあちゃんの再婚相手だった元帰還兵の人が手を尽くしておじいちゃんの実父の行方を探してくれた。仁おじさんから聞いた事がある。おじさんは父親が亡くなった後にその事実を兄であるおじいちゃんに伝えてるんだ。だからおじいちゃんは父親が戦後インドネシアの独立戦争に参戦した事までは知ってる。その後の消息まではわからなかったそうだけど‥でもまさか、むこうの女性との間に子供まで作ってたなんて‥おじいちゃん知ったらどう思うかなあ‥」

「そうねえ‥」相槌を打つ母の表情にも不安が浮かんでいた。だがそんな二人の戸惑いを根底から覆すようなとんでもない出来事がこの先起きるのをその時の旭は知る由もなかった。

旭の父和憲が父宛に思いがけない手紙が届いた事、そしてその手紙には思いもよらない内容が書かれていた事実をどう親に伝えるか考えあぐねていた時だった。それは手紙が届いた翌々日の事、旭の家に思いがけない人物が訪ねてきた事から始まる。ピンポーン!高校生としての最終試験となる春季試験勉強の為にいつもより早く帰宅していた旭は、忙しそうな母に代わってその訪問者を出迎える為に玄関に向かった。

(誰だろうな、この暮れも押し詰まった時期に‥)業者なら追い返してやろうと勢いよく玄関を開けると、そこには見たこともない人物が立っていた。年の頃は五十代なかばと思われる中年の女性‥目鼻立ちの整った上品で美しい顔立ちだが、どう見てもアジア系の顔立ちで生粋の日本人とは思えなかった。

(まさか‥)手紙の事がずっと頭から離れなかった旭は、一瞬祖父の腹違いの妹が直接訪ねてきたのかと思ったがそれを頭の中で打ち消した。そんな事ある筈もないと‥だが彼の直感は遠からず当たっていた。彼女は尊一の腹違いの妹の娘クレア‥紛れもない尊一の姪にあたる人物だったのである。

「あの‥どなた?」戸惑う旭にその女性はゆっくりスマホを差し出す。そして英語で語りかけた。するとスマホが日本語で喋り始めた。どうやら翻訳アプリを使って話そうとしているようだった。そしてスマホが語りかけたその一言で、旭は自分の直感がそう外れていなかった事を悟ったのだった。

「私の名前はクレア、母は尊一さんの腹違いの妹にあたります。尊一さんはいらっしゃいますか?」

「えっ‥?」スマホが語りかける最初の衝撃的な一言、機械の言葉でも旭は驚き何と言っていいか分からず唖然として女性を見つめるしかなかった。妹という女性の娘が直接会いに来たのか?最初から?余りにも性急過ぎる‥こちらは心の準備もまだ何も出来てはいないのに‥「旭‥」振り向くと母雅代が心配そうに息子を見つめている。

「母さん、おじいちゃんの妹さんの娘さんだそうだよ。でも直接会いに来るなんて、いくら何でも早過ぎるよ!まだ手紙がきたばかり‥おじいちゃんにはインドネシアに妹がいるって事も話してない。どう話すかまだ考えてる時なのに‥」腹立たしい思いに駆られながら旭は厳しい口調で言い放った。

すると旭の言葉の内容を翻訳アプリで理解したのか、女性は今度は懇願するように口を開き何やら必死に訴え始める。見るとその目にはいつしか涙が滲んでいた。

「クレア‥さん?」旭と母雅代は、彼女の必死な様子に引き込まれ翻訳アプリで彼女の涙ながらの訴えの内容を聞いた。それは彼女が直接会いに来ようと決心するのも無理からぬ内容だった。彼女の涙の訴えは続く。彼女の話の内容はこういう事だった。

「お願いです、聞いて下さい。母は重い病気です。乳癌で転移を繰り返してもう長くありません。何十年も前から病と闘ってきましたが、もう無理です。母はずっと我慢してきました。というか父の言いつけを守って、もし日本に肉親がいても会わずにいようと自分を制してきたんです。然し年だしこれ以上無理は出来ない。闘病にも疲れはててます。母には時間がないんです。近々天に召されるでしょうが、私はその前に日本人の肉親に会わせたい。日本に兄がいるという事実を知らされた時、母は驚きの余り失神しました。気が付くと泣いてました。母だってもし肉親が生きていれば会いたい筈、私はその思いを叶えてやりたい。だから色々な方法で日本にいる肉親の行方を探してもらってやっと探しあてました。そして迷わず来ました。」

「えっ‥」旭も雅代も思いがけないクレアの告白に絶句した。言葉がなかった。そんな二人を前に涙を流しながら尚も彼女の訴えは続く。

「日本兵だった私の祖父とインドネシア人の祖母が出会ったのはまだ戦時中の時でした。祖母から聞いてます。戦闘で怪我をし動けなかった祖父を見つけた祖母は、かくまって怪我が治るまで看病し続けたそうです。戦争が終わるまでは米兵に見つかる懸念があった。勿論日本軍にも‥怪我をした祖父を洞窟に運び世話しながら食料と水を運んで‥いつ見つかるかヒヤヒヤしながらとにかく必死で‥助けるのも命がけだったそうです。」

「そう‥なんですか‥でもよく助けて下さって、あなたのお祖母様は主人の祖父の命の恩人だったんですね‥」義父とインドネシア人の女性がどのように関わったのか‥思いもよらない事実を聞かされて感慨深げに雅代が答える。更にアプリで翻訳されたクレアの訴えは続く。

「日本の降伏で戦争が終わった現実を祖母から聞かされても、祖父は始め信じようとしなかった。暫くは魂が抜けたようだったそうです。でも祖母はこれでやっと逃げ隠れせずに祖父と一緒に居れるとホッとしたそうです。その時祖母には共に生死の境を乗り越えた祖父へのほのかな恋心が芽生えていたのかもしれません。でも日本人を見る現地の人達の目は、最初は厳しいものでした。日本は自分達を苦しめた侵略者‥そんな思いを抱く人達も少なからずいたのは事実です。。そんな中祖父は日本に残してきた妻子を思い、帰国する事を決めました。そして寂しがる祖母に言ったそうです。君には心から感謝している。然し自分には日本に残してきた妻と子供がいる。出征する時妻のお腹に宿っていた命‥生きてさえいてくれれば無事に生まれてる筈だ。男か女かもわからないが、生きていれば自分には親としての責任がある。何より子供に会いたい‥妻に会いたい‥そう言って祖母の前で泣いたそうです。そんな祖父の様子を見て祖母は寂しい気持ちを押し殺して、やむなく祖父を日本へ‥祖国へ送り出したのだそうです。」

「まあ‥」それなら何故再会出来なかったのだろう‥旭は父和憲から、終戦の年空襲が激しくなった頃縁戚を頼ってまだ乳飲み子だった祖父と曾祖母が地方に疎開していた事を聞いて知っていた。曽祖父の話によれば二人が住んでいた家は空襲で焼け、町自体がすっかり焼け野原になったという‥

「俺はまだ赤子だったから殆ど覚えちゃいないが、お袋は終戦後自宅があった場所に戻ってもただ呆然とするだけだったって言ってたよ。家は焼けどこがどこだか全く分からなかったって‥それでも親父が帰って来た時に自分達が生きている事を何としても知らせなきゃいけないから、大きな立札を立てたって言ってた。自分達は生きてるって‥無事でいるからここに書いてある今の住所を必ず訪ねてくれってそう書いて‥」

まだ子供だった頃、旭はよく酒が入る度に必ず出る祖父尊一の愚痴めいた戦後の苦労話を聞かされて育った。勿論その事実は彼の両親も知っていて手紙で生きて帰国したのに家族が再会出来なかった悲劇的な現実に皆打ちのめされる事になる。その時だった。父和憲の車が旭の視界に入り和憲が帰宅したのを知った母子は顔を見合わせ、この後どうするべきか考えた。そしてその夜、何とかクレアをホテルへ帰らせた家族は、幼い妹だけ外しこの先どうすべきか、戸惑い混乱するだろう尊一にクレアをどう会わせたらいいのか考えあぐねた。

手紙で父親に腹違いの妹がいる事を知っていた和憲は、その娘であるクレアがなぜこんなにも性急に日本にやってる来たか旭達にその訳を聞くと、さすがエリート会社員らしくアプリを使わずにそのままクレアと英語で話し始めた。冷静な口調‥所々詰まる部分はあるもののクレアとそのまま話し続ける父を見て、旭はさすが海外での赴任経験もある自分の親を今更ながら見直した程である。とにかく和憲は母親の重い病状を見ておられず一刻も早く実の兄に会わせたいと懇願するクレアに、家族共々あなたの願いを叶える為に最善を尽くすと約束してとにかくその場は引き取ってもらったのだった。そしてその後‥言葉が途切れがちな家族会議、そのうちに和憲がポツリと口にする。

「俺が明日父さんに話すよ。たった一人の息子だしね‥俺の役目だ‥」

「あなた‥」

他ならぬ息子から聞かされたとしても、尊一が重病を患っている腹違いとはいえ実の妹の存在を知ればどれだけ戸惑うか‥その気持ちを思いやると旭にも雅代にも困惑の表情しか浮かばない。だが和憲はそんな二人に心配しないように明るく言い放つのだった。

「大丈夫だよ!二人はしっかり見ててくれ‥父さん上手く話すからさ!」

「でもあなた、せめて仁叔父さんにだけでもこの事を話しといた方がいいんじゃないの?」心配する妻の言葉を和憲はやんわりと否定する。

「仁叔父さんも君江叔母さんも、クレアさんの母である父さんの妹とは血の繋がりは無いんだ。それに二人とももう年だし、余計な心配はかけたくない‥」「でも‥」

尚も言いすがる妻に和憲は穏やかな視線を向けると、ふと部屋の片隅に置かれた小さな袋を見つけた。

「それは‥?」

「あっ、ああ‥クレアさんが帰る時無理に置いてったものなの。あなたの了解を得てなかったんで置いていかれても困るって言ったんだけど‥」雅代が戸惑いつつも袋手に取りそれを夫に手渡す。「何だろうなあ‥」和憲が確認すると、その中には信じられないものが入っていた。

「きゃ、何それ?」悲鳴にも似た声を上げ、興奮した口調で雅代が咎めるように言い放つ。綺麗な包装紙で梱包されていたが中にあったのははボロボロになった何十年も前のものとわかるノートで、所々血のような赤いシミが付いていた。

和憲は無言でそのボロボロのノートを手に取り、ノートに添えてあった一枚の便箋を開いた。たどたどしい文章だが、そこにはクレアの何としても尊一に母の元に会いに来て欲しいという強い願いがこめられていた。和憲は書かれている文章を、妻と息子の前で声に出して読み始めた。

「知り合いの伝手で日本語が書ける人を何とか探し出して私の思いを書いてもらってます。読みにくくてもどうか勘弁して下さい。このノートは間違い無く母の父、私の祖父でありあなたの父親でもある人が書いたもの‥いわば形見です。戦場での壮絶な戦いの日々の中で、彼があなたとお母さんをどれだけ思っていたか‥余りにも辛すぎる内容が書かれてありますので、祖父が亡くなった時祖母は埋葬時に棺に入れてノートの存在自体を葬ろうとした程です。でも娘である母がそれを止めたそうです。お父さんの苦難を無いものにしたらいけない。否、お父さん達の苦難や苦しみを無いものにしたらいけないと‥」

「お父さん達の苦難‥?」旭が口を挟む。和憲はそんな息子に静かに目をやると穏やかな口調で更に続けた。雅代は表情を変えずにじっと聞き入ってる。

「母のシンシアは祖母によく訴えていたそうです。いくら敗戦のショックに打ちのめされたとしても、戦後の日本は余りにも自国民に冷たい、命を賭して戦い死んでいった人達、生き残っても戦勝国と目される一部の傲慢な人達から人権を散々踏み躙られたり‥」

「それは‥」確かにそうかもしれない。旭も思った。戦後の日本の教育は只管戦争責任の追及の元に自国の誇りを傷つける方向に進んできた。日本に生まれた事がまるで罪悪かのように思い込まされる教育‥先の大戦で命を落とした人達は、自分達は何の為に死んでいったのだろうとあの世でずっと悔しい思いにし続けているのかもしれない。感慨に浸る家族を前に更にクレアの言葉は続く。

「日本で妻子に会えなかった祖父は、もう二人はもう死んだものと思い安否を確認するのを諦めてインドネシアへ‥祖母の元に帰ってきました。日本兵の自分を助けた事が公になれば祖母がどんな災難に遭うかもしれない。実は祖父はその事をずっと心配してました。それだけではない。インドネシアに危うい気配が近づいてた‥それは欧米の植民地だった他の国々も同じですが、日本が戦争に負けて曾てインドネシアを植民地にしてたオランダが再び祖母の国を支配しようとしていた。そんな現実があったからです。もし戦争になれば命の恩人である祖母を自分が守らねばならない。祖父はそう決意してインドネシアに戻ったそうです。」

「アジア諸国の独立戦争‥日本は戦争には負けたけど、その奮闘ぶりが欧米の植民地だったアジア諸国に独立の機運を齎したって父から聴いた事があるわ‥その戦いに太平洋戦争を生き延びた日本兵がそう多くはないけど確かに参戦した事実を今の多くの日本人は知らない。父はよくそれが悔しくてならないってこぼしてた‥でもまさかこの人の、そしてあなたのお祖父様がその一人だったなんて‥」

普段穏やかで冷静沈着な祖父尚徳も、悔しい思いを抱いていたのかもしれない。そんな父親に育てられた母雅代も抱く思いは同じだった。彼女は静かに口を開く。

「父からシベリア抑留で生きて帰れなかった、祖父が語ってくれたという多くの仲間達の悲哀に満ちた思いや訴えを聞いた事があるわ‥決して進んで話してくれた訳じゃないけど‥祖父がシベリアから生きて帰れて仲間の悲しみを伝えてくれたので、私も父も帰れなかった人達の悲しみを知る事が出来た。そして片や生き延びたけど、日本に帰国せずにアジア諸国の独立戦争に参戦したあなたのお祖父様のような日本兵も確かにいた‥どちらも同じ日本兵、どんな思いで戦後を生きてきたのか、戦後の平和な時代を生きてきた私達は知らないし進んで知ろうともしなかった。」

妻の言葉に、和憲は梱包してあった綺麗な紙とは正反対のボロボロで手にするだけで敗れてしまいそうなノートと目されるものをそっと手に取った。そしてゆっくりページをめくる。中身に目を通す和憲の瞳にはすぐに涙が滲んできた。

「あなた‥?」夫の様子を案じ思わず雅代が声を掛ける。だが和憲はそのまま涙で噎せながら黙ってノートに目を通し続けた。暫くして呟くように口にした。

「これは遺品だ‥私の祖父でありクレアの祖父でもある人が、生きるか死ぬかの戦場で綴り続けたいわば手紙のようなもの‥それにしてもよく残って‥余程大事にしてたんだろうな‥」

「お祖父様の日記ならまだまだ続きは有るって便箋には書かれてるわ。でも最初の一冊であるこれを持ち出すのは、お母様には反対されたそうよ。それどころか日本に行く事も絶対に反対してたって!」

夫に代わって便箋を手に取った雅代が、綴られた文章を読み続ける。そしてその長すぎる年月に基づく重すぎる内容がどれだけ大切にされてきたかを静かに語った。

「これと同じノートというか日記帳は、まだまだ何冊も有るってこれには書いてあるわ。クレアさんのお祖母様が、夫が亡くなった時棺に入れて永遠に葬ろうとしたけど娘であるお母様が止めた‥止めて良かったって‥だってこのノートがきっと同じ父親を持つ血の繋がった兄妹の架け橋になるからって!そう信じてお母様の許しを得ず最初の一冊だけこっそりと持ってきたって‥お母様の病状は確実に悪化してるそうよ。今動かなければきっと一生後悔する。何としても生きてるうちに日本にいる兄か姉、兄妹に会わせたいって思った。お母様だって内心はきっと会いたいと思ってる筈だ‥だから来たって」

「それにしても何故今?戦後八十年近く経った今になって‥」旭が思わず口を挟むと、雅代は反論するような口調で続けた。

「お祖父様の継父だった方が手を尽くして安否を確認されてたのでしょう?向こうでもしっかり調べてどうやら親族はいるらしいということは、かなり以前にわかってたらしいわ。でもクレアさんのお母様は会おうとはしなかった‥」

「何故?」理解に苦しむ旭の問に雅代は首を振りながら答える。

「はっきりは言えないけど、結果的に日本で待つ家族から大切な夫を奪ってしまった事になるのではないか‥彼女なりの後ろめたさがあったのかもしれないわね。それでもクレアさんが病気が重いお母さんの為に一大決心をして持ち出したノート、何としてもお義父さんに読んで貰わなきゃね。」

母の言葉に旭は涙ぐみながらもボロボロのノートに目を通し続ける父に目をやる。そんな息子に父は見るか?と一言声を掛けると大切な遺品を手渡した。恐る恐るページを開くと最初から胸を打つ文章が旭の目に飛び込んできた。

「会いたい!かわいい我が子よ!愛しい我が子よ!何としても生きて帰っておまえをこの手に抱きたい‥息子か娘かも父である私にはわからないが、おまえの泣き声を聞き柔らかな頬に頬擦りしおまえの命を私の全身で味わいたい。父は今戦場にいる。昨日も今日も多くの仲間が死んでいった。仲間にも家族はいた。大事な人はいた。生き延びた父がこんな事を願ってはいけないのかもしれないが、それでも私は人間だ。当たり前の思いを綴っておく。私がもし死んだら、このノートだけでもおまえたちの所に届くことを願って‥」

原文は所々掠れたり消えたりしてとても読めるものではなかったが、戦後本人が追記したのだろう。原文の下に改めて旭でも読めるような文章が記されてあった。雅代が更に最初の一冊であるこのノートが書かれた時期を補足する。

「このノートの終わりの方で、あなたのお祖父様は戦闘で大怪我されたらしい‥で、クレアさんのお祖母様に助けられて洞窟に匿われながら彼女が介抱してくれて結果的にお祖父様は何とか生き延びたそうよ‥」

それでもそんな形で生き延びた自分を恥じたのだろうか、それとも死んでいった仲間に申し訳ないと思ったのだろうか‥彼は一旦帰国したものの家族には会えず徹底的に探すのを諦めて、インドネシアへ命の恩人の元へ戻っている。旭は更にノートに目を通す。

「おまえのお母さんはとても強い人だ。きっと生き延びておまえをしっかり守ってくれていると信じたい‥でも父がいるこの戦場では、余りにも死が多すぎる。ついさっき言葉を交わした仲間がもう数分後には骸になってる‥それでも父は生きて帰りたい‥仲間ともよく話すんだが、自分達は何の為に戦っているのか時々分からなくなるんだ。戦争なんだからそんな事考えちゃいけないのかもしれないが、戦ってる相手も同じ人間、あいつらも父達と同様正義の為、自分達の戦いを正義の戦いと信じて戦ってるんだろうな。そう思うと何だか虚しい気がして、余計におまえに‥そしておまえの母さんに会いたくなる。」

外観はボロボロだが、そのノートに記されている内容は旭とその家族のような身内でなくとも日本人なら胸を打たずにはおれないそんな重過ぎる価値があった。でもだからといってそれだけ家族との再会を願っていた曽祖父の行動が、何故インドネシア独立戦争への参戦に向かったのだろうか‥家族の生死を確認する為にも再びの帰国という選択肢もあったろうに‥旭が呟くようにそう口にすると、ノートに添えてあった手紙に目を通していた母が頷きながらも答える。

「それが当時のインドネシアの状況は不安定でね。まあインドネシアだけじゃない。日本は戦争には負けたけど欧米相手の奮戦ぶりがアジア諸国の独立の機運を齎したってさっき言ったでしょう?やっぱり命の恩人であるクレアさんのお祖母様をほっとけなかったみたいよ。インドネシアでは植民地にしていたオランダとの間で独立戦争が始まろうとしてたみたいだし‥」

「そしてその独立戦争に参戦し、その時の怪我が元で私の祖父は数年後に亡くなってる‥命の恩人の女性との間に娘まで儲けながら‥」

息子の言葉に両親は顔を見合わせて相槌を打った。和憲が自分に言い聞かせるように強い口調で自分の思いを宣言する。

「さっきも言った通り父さんに話すのは息子である俺の使命なんだろうな‥クレアさんは明日も明後日も、父さんが会うと言わない限り毎日でも説得に来るだろう。こちらとしてはもっと時間が欲しい所なんだが、お母さんの病状が良くないとなれば、彼女が何としても実の兄に会わせたいと焦るのは当然だろう。ここは強行突破しかないか‥」

どうやら和憲は強い決意を抱いて父尊一と対峙する意志を固めたようだった。そしてその日の夜、すぐ近くにあるのだがなかなか訪れようとしなかった実家へ祖父の遺品である大切なノートを持って出掛けたのだった。

一緒に行こうかという旭の申し出に首を振り、父の所へ祖父の遺品を持っていった和憲は、数時間後に家族の元へ戻って来た。

「どうだった?」どうだったという聞き方が相応しいのかどうか分からないが、そう尋ねるしかない。だが和憲は、とても疲れた表情を見せるとノートは置いてきた。実の父親の形見だからしっかり見るように言っておいたとだけ答えたのだった。

翌日和憲は早速実家に電話し、母秀子に昨日自分が帰宅した跡の父の様子を尋ねた。旭は旭で親子間でどんな話し合いが持たれたのか、詳しく話してくれない父にやきもきしていたが、母雅代に父さんは一生懸命やってる‥戦後八十年近く経って、一旦完全に途切れてしまった肉親の絆を繋ぎ直そうと努力しているから今はしっかり見守ろうと諭され渋々頷いた旭だった。母秀子の話では尊一は重すぎる事実を息子から伝えられた後、自室にこもったっきりで秀子の言葉にもなかなか応じようとしなかったという。ただ和憲が持っていった大切な父親の遺品だけは最初息子が差し出しても受け取ろうとしなかったが、その後朝になり秀子が自室の前の棚に置いていたのが無くなっていた。当然尊一が自室にもち込んだものと思えた。

「で?今朝はどんな様子だった?父さん何か言ってた?」尋ねる息子に、秀子は電話口で首を振りながら沈んだ答える。

「ううん、ご飯の時もその後も私がどんなに話しかけてもああ、とかううんとか、そんな調子よ。いつもそんな感じだけど、やっぱりいつもよりぼおっとしてる。まあ無理も無いかもしれないけど‥」

「そう‥だろうね‥急に父さんみたいな立場に立たされたら誰だってそうなるかも‥」和憲は父の気持ちを思いやりながらもこれからどうすべきか、考えあぐねていた。

そしてやはりその日の夕刻クレアは旭の家を訪れた。何としても直接会って尊一に病床の母に早く面会して欲しいと祈るばかりの彼女だったが、それでも相手の都合に合わせ和憲が仕事から帰宅してからの訪問となったのだった。

だが彼女は、和憲達家族が尊一と同居していない事を聞かされると非常に落胆した様子だった。そんな彼女に和憲は父はすぐ近くに住んでいる。とにかくインドネシアに血の繋がった妹がいる事とその彼女が重い病で明日をもしれない状態にあリ、娘さんが是非会って欲しいと日本まで出向いて来ていること‥そして何より実の父が戦場で綴った命よりも大切な実父の形見である遺品を持ってきてくれた事をしっかり話したと告げた。最初は受け取ろうとしなかった父親の形見だが、朝になれば母がそれを置いた場所から消えていた。父はきっと、否必ず読んでくれた筈だから焦る気持ちは十分わかるがもう少し時間をくれないかと和憲はクレアに優しく語りかけた。和憲の流暢な英語を黙って聞くクレアの目には、いつしか涙が浮かんでいた。旭は二人の会話の内容が分からないままふと父に尋ねた。

「シンシアさんだったっけ?お祖父ちゃんの妹さん‥彼女の旦那さん、つまりクレアさんのお父さんは今どうしてるの?」

すると和憲は従姉妹にあたるクレアとの会話で、クレア達親子が決して幸せな境遇で戦後を生きてきた訳ではなく、彼女達親子が歩んできた人生の厳しい現実を口にした。それは旭が学校で習ってきた日本の戦後史には微塵も伝えられてこなかった真実だった。

「クレアの実の父親は、妻のシンシアが日本人の血を引いている事を知って彼女に辛くあたるようなったそうだ。その後夫婦仲が戻る事なくクレアが物心ついた頃に親御さんは離婚したって‥」

「そんなあ‥酷い💢何で?」思ってもみなかった事実を聞かされ、思わず旭は抗議の声を上げる。日本は、当時の日本人はそんなに嫌われていたのか‥敗戦で生き残った日本兵が、何故そこまで恨まれなければならないのか‥しかも曽祖父はオランダ相手のインドネシアの独立戦争に参戦し、その時の怪我が元で亡くなっているというのに‥旭の納得出来ないという抗議の声に怪訝な表情を浮かべたクレアだったが、和憲の説明に旭の苛立ちを理解したらしく、再び戦後の自分達の境遇と家族の事について語り始めた。和憲にとってもシンシアにとっても祖父であリ又旭の曽祖父にあたる人物について、クレアの話ではとても優しい人だったそうだ。日本への帰国の機会を逸した後、彼は独立戦争参戦時に負った怪我を押して家族の為に必死で働いた。だが当時はまだまだ日本人への風当たりは強く、なかなか日本人である事を公にするのは憚られる時代だった。そんな事情を聞かされて、旭は納得出来ずに再び声を上げる。

「どうして?インドネシアだけでなくアジア諸国を植民地にしてたのは欧米でしょう?植民地にしてた国々の人達を人間扱いしてなかったとも聞いたよ。何故日本人だけが恨まれるの?第一生き残った日本兵がひいお祖父ちゃんのようにインドネシアだけでなくアジア諸国の独立戦争に多く参戦し亡くなってる現実があるのに、何で日本人だからって憎まれるの?」

現代っ子の旭にしてみれば、最もな問だったかもしれない。だが和憲は口を尖らす息子に静かにこう答えただけだった。

「戦争だったからね、実際に戦場で日本軍によって命を奪われた人、助かっても酷い目に遭った人も少なくなかったそうだ‥日米の戦闘に巻き込まれる形でも、戦場で亡くなった人達の遺族の怒りの矛先は日本に向けられた。まあ極限状態ならあり得る事だし敗戦国に全ての責任が押し付けられるのは戦争の常だったから、結構日本軍の侵攻で惨い事もあったらしい‥」

「本当なの、それ?信じられないんだけど‥」納得出来ない旭‥

すると二人の会話の内容も分からないだろうに、クレアがいきなり割って入るように語り始めた。彼女の話を聞いていた和憲は、大いに頷いて息子に語りかける。

「インドネシアの独立戦争時に残留日本兵が参戦し、祖国の独立の為に共に戦ってくれた事を知らないインドネシア人も昔から多かったそうだ。現代では結構知られているらしいが、当時はね‥」

「でもそれは日本でも言える事だよね。否寧ろ日本の方がそういう人達の存在を知らなければならなかったのに、僕達学校では日本だけが凄い悪い事をしてきたようにしか教えられてこなかった。確かに日本は戦争という過ちを犯したかもしれない。でも戦後の日本では戦争は悪だとばかり戦争責任を全て我が国に押し付け、自国民の加害者意識を一方的に煽るだけで、当時の歴史の真実や被害者となった同胞‥罪無き人達の人権を決して公平な目線で捉えようとしなかった‥」

「旭‥」まだまだ子供だと思っていた息子からしっかりした歴史観が語られた事に、和憲は少なからず驚いたようだった。旭自身でさえ自分の口から出た言葉に驚いたが、思えばそれは二人の曽祖父が片やシベリア抑留からの生還者であり片やアジア諸国の独立戦争に参戦したという稀有な血筋故に、現代を生きる日本人として発せられた言葉だったかもしれない。それとも‥旭は心の中でこう呟いていた。

「ひいお祖父ちゃん達が僕にこんなことを言わせたのかなあ‥それも無意識のうちに‥」

案外旭の思いは当たってるのかもしれなかったが‥そうこうしているうちに、父和憲が伯父に会えずに落胆しているクレアに優しく語りかける。その言葉を聞いたクレアの顔にはそれまでの重苦しい表情と変わって初めて笑みが浮かんだ。英語が分からない旭が何と言ったのか父に聞くと、和憲は親同士が兄妹なら自分達家族も君の身内となるんだからこれからは遠慮なくいつでも連絡取ったリ会いに来てもいいんだよと伝えた事を告げた。聞けばクレアの家族は最初は彼女が日本へ行く事に強く反対していたらしい。だが病状が芳しくない母に唯一の肉親である兄を会わせたいというクレアの一途な願いをやっと聞き入れクレアの夫は妻が日本へ行く事を認めてくれたそうである。クレアの夫は会社を経営していてインドネシアでも比較的裕福な家庭の主婦であるクレアは、大学に通う二人の息子と何不自由なく暮らしていたが決して母と自分のそれまでの不遇な境遇を忘れた訳ではなかった。又先の大戦から八十年近く経った今では、インドネシアでも曾てのように日本に冷たい視線を向ける者は殆どいなかった。

「じゃあ!」和憲が自分を奮い立たせるようにいきなり携帯を手に取るとクレアにしっかりした口調で何か語った。「父さん‥」心配そうに見守る息子にも穏やかに頷くと、和憲は改めて自分の決意を口にした。

「明日、クレアを父さんちへ連れて行く。仕事も休みをもらった。大切な事だからね!何としてでも父さんにはクレアに会ってもらう。その為にも今から電話する‥クレア、君の母さんは父さんの妹であり、私の叔母でもある。何より君は父さんの姪だ。大切な身内だ。私が絶対に言葉を交わさせる‥今会わなければ絶対に後悔する‥」

そう口にすると和憲は受話器を取り実家の番号を押した。父尊一は携帯電話は持っていない。それは母の秀子も同じだった。予想していた通り最初に電話に出た母に、和憲は父に代わるように促した。クレアの事も彼女が何の為に日本へ来たのかも全て知っている母秀子は、しっかり頷くと夫に受話器を差し出す。そして静かに語りかけるのだった。その声は受話器を通して和憲や旭の耳にも聞こえてきた。

「出るべきです。そして妹にも会うべきよ。昨日の夜、あなたベッドで声を殺して泣いてたじゃないの。私が気付いてないとでも思ったの?あなたがやっと眠りについた後、私悪いと思ったけどお父さんの遺品のノート読ませてもらったわ‥まだ見ぬ我が子であるあなたへの思いが、ノートの隅から隅まで溢れてた‥お父さんはお母さんやあなたを決して裏切った訳じゃない。何故もっとしっかり探してくれなかったのか‥結局自分達は見捨てられたのではないか‥あなたはそんな思いにお父さんの遺品を読んだ今でも囚われてるの?一度は帰国したお父さんだけどあなたとお母さんが見つからなくてもう一度インドネシアに戻った。命の恩人の事が心配だったから‥日本の戦争は終わったけど、その後アジア諸国を植民地にしてた欧米との独立戦争が始まろうとしていたそうね。独立戦争があったのはインドネシアだけでなく、欧米の植民地だった他のアジア諸国もそう‥他国の独立戦争にも折角生き延びた命を捧げた日本兵がいた事を知る日本人は決して多くない。シベリア抑留者の判明した名前が戦後何十年も経った今でも新聞に載ってくる現実にも同じように私達日本人は疎いというか、知らない人間は多い。同じ事‥その現実に私は忸怩たる思いだけど、だからといって現実に背を向けてどうするの?クレアさん、そしてあなたの妹であるシンシアさんにも何の責任も無いのよ。クレアさんに会ってあげて‥そしてシンシアさんにも‥シンシアさんは病気が重くいつまで持つか分からないそうね。今会わなければ絶対に後悔すると思うわ‥はい、これ‥」

無理に握らせたらしい受話器からその時確かに尊一の声が聞こえてきた。

「クレア、私の姪‥そこにいるのかい?よく‥来てくれたね‥」

「父さん!」父の思いがけない突然の言葉に、和憲は咄嗟に自分の握っていた受話器をクレアに手渡す。それを掴み初めて言葉を交わす叔父‥尊一に涙声で必死に訴えるクレアの頬を一筋の涙が伝う。

彼女の思いを引き取って父和憲が続ける。

「父さん、クレアさんだよ!父さんの妹のシンシアさんの娘であるクレアさんだよ!父さんの姪だよ、顔も知らない父さんの父さん‥僕のお祖父ちゃんの大切な遺品を持って来てくれた人だよ。明日連れて行くから会うんだよ!そして‥彼女と一緒にインドネシアに行って、シンシアさんを見舞ってあげてね!心残りだった日本にいるたった一人の肉親と会えば、たった一人の兄である父さんから励ましてもらえれば、彼女にも生きる力が湧いてくるかもしれない。妹を励ますのは、兄である今の父さんの役目だよ!」

咽び泣くクレアの横で和憲が懸命に訴える。向こうの受話器からは尊一の嗚咽が聞こえるだけだったが、、和憲はそれでも声を張り上げるしかなかった。一向に言葉にならない尊一の声、すると母の秀子が父に代わって答える。

「心配しなくても大丈夫よ。お父さんは会ってくれるわ。今何度も電話口で頷いてる。明日午前中に来るんでしょう?待ってるわ。それに、パスポートも準備しなきゃね‥なんせ一度も外国へ行った事の無い人だもの、どうやって取ったらいいのか‥でもあなたがいるから心配してないわ。外国暮らしを経験してるあなたが全てやってくれるんでしょう?頼りにしてるわよ。」「母さん‥」

旭は祖父がクレアの訪問を受け入れ、インドネシアで病床にある妹に会いに行く事まで決意した現実をただ驚いて受け止めるだけだった。

翌朝家に訪れたクレアを車に乗せ、和憲はすぐ近くの実家へと向かった。旭も同行したかったが、学校を休ませる訳にはいかないと両親に止められた。不服そうな表情を見せる息子に父は必ず経緯を話すからと約束してくれた。母雅代がクレア親子の事を尊一の異父兄妹の二人に話すのか夫に問うと、和憲はまだそこまでは考えていないし、今はそこまで考えられない状態だと答えるのだった。

その日一日中授業もうわの空でしか受けられず、ずっと祖父と姪にあたるクレアとの対面がどうだったか気になっていた旭は、帰宅してすぐに父に二人のその時の様子を尋ねた。和憲は目を赤くしてその時どんな会話が交わされたのか静かに語ってくれた。その中でも和憲が最も驚かされたのは尊一にとっては一度も会った事の無い父が残したボロボロのノートに記された記述の重みだったという。

「自分達は結局父親から見捨てられたんだという、父さんの親を憎み戦争を憎み続けたあれほど頑なだった姿勢があの命のノートでどれだけ和らいだか‥泣きじゃくるクレアを父さんはしっかり抱きしめ、出来るだけ早く病床にある彼女の母親、自分の妹に会いに行く事を約束してくれたよ。」

「そう‥良かった‥」ホッとする雅代に笑顔を向けながら、和憲は更に言葉を続ける。

「父さんや僕達みたいな立場にいる日本人には全く知らされてこなかったけど、まだいたんだろうなあ‥父さんの父親、僕のお祖父ちゃんと同じような人生を辿った旧日本兵の人達が‥ノートでは終戦直後アジア諸国にはまだ日本への反発がかなりあったそうだ。だから父さんはインドネシア人の名前を名乗り、日本語は殆ど喋らずに暮らした書かれてある。」

「どうして?戦争はどちらが正義でどちらが悪というのは極端な背景がない限り、決して断定出来ないと思う。それが正しい見方でしょう?確かに敗者が裁かれ一方的に悪とされるのは歴史の常だけど‥でもどうして日本だけがそんなに憎まれたの?」

「簡単に答えられる質問でもないな‥」

現代っ子の旭らしい質問だが、和憲は難しい顔をして口籠る。確かに太平洋戦争を生き延びた残留日本兵の存在と、その後彼らがどう生きたのか‥殆ど知らされてこなかった戦後の日本人にとって、それはそれなりに重みを持った問いかけだったと言える。和憲は納得出来ない息子に更に今日の二人の対面の様子を語リ続ける。

「親父言ってたよ!顔も知らない父親が命のノートに記した記述‥あの独立戦争が無ければ、自分は何としてももう一度帰国して妻子を探すつもりだった。住んでいた場所一帯が空襲で焼け野原になり、一度は二人共死んだものと諦めたが、共に独立戦争で戦った仲間が大都市は空襲で狙われてたから疎開してたんじゃないかと言われて、特に乳飲み子がいれば先ず疎開するだろうと言われ、もっとよく探さなかった事を心から後悔した。否或いは自暴自棄になってたのかもしれない。命の恩人である女性の安否も気になってたし‥そして彼女の無事を確認し再び妻と子供を探す為に帰国しようとした矢先‥オランダが再びインドネシアを支配しようと乗り込んできて‥」

「独立戦争が‥始まった‥」「ああ‥」旭の無常な一言に和憲は頷いた。更にクレアが記憶している母との会話の中の父親像、祖父の姿にも触れる。

「シンシアさんが幼い頃独立戦争の時に負った怪我が元で祖父は亡くなったんだが、面影位しか記憶になかった筈なのによくお父さんの事をクレアに話してくれたそうだよ。とっても優しい人だったって‥でも時折見せる寂しそうな表情が気になってたって‥何故そんな寂しそうな表情を見せてたのか、幼い彼女はその時はわからなかったが今ならわかる。日本に残してきた安否不明の肉親‥奥さんと子供の事を思ってたんだろうなって‥クレアさんが言ってた。」

「そう‥でもとにかく良かったわね、お義父さんが会ってくれて‥お母さんを思うクレアさんの気持ちがきっとお義父さんに通じたのよ。それに何よりもあのノート‥この世であれほど命の重みを記したノートはないと思うわ‥」

妻雅代の言葉に改めて深く頷いた和憲だった。更に続ける。

「僕も最後まで目を通したが、祖父がどんな思いで戦争を生き抜きどんな思いであのノートを残したか‥一字一字に祖父の心が綴られていた。私達は余りにも先の大戦を否定し忌避する余り、当時を精一杯生きて祖国の為に戦った人達の存在を疎かにしてきたのかもしれない。同じ日本人なのに‥同じ同胞なのに‥」

「そうね、そう思うわ‥確かにそんな教育を戦後の日本人全てが受けてきたせいもある。父の父が生還出来たシベリア抑留だって罰せられる事は無かったけど、人道上許されないれっきとした犯罪だもの。でもシンシアさんは病状が悪くなっても、自分から兄であるお義父さんには会おうとしなかった‥クレアさんの話ではその時には妻子の生存は確認されてたそうじゃない?お兄さんは日本で生きてる事がわかったのに‥それなのに何故会おうとしなかったの?」

雅代の問いかけに和憲は少し困惑した様子で答える。

「それを言われると、僕もはっきり答え兼ねるんだが‥やっぱりシンシアさんのお母さんには、日本で生きているかもしれない家族から大切な大黒柱である父親を奪ったかもしれないという罪悪感があったのかもしれないね。しかもその人は自分の国の独立戦争に参戦して、その時の怪我が元で亡くなってる‥日本の家族が生き延びていたら家族の絆を割くような悪い事をしたのではないか‥そんな思いを抱いて生きてきた母親の気持ちを、シンシアさんが引き継いでしまったのかもしれない。」

「だから積極的に探そうともしなかった‥?」「うん‥」

「でもそんな母親の病気が重くなり、生きてるうちに会わなければ絶対に後悔すると思うクレアが、反対を押し切って日本に来た。何としてもたった一人の兄に会いに来て貰う為に‥妹である母と会わせる為に‥」

息子の言葉に和憲は大きく頷いて答える。

「そう‥クレアは顔も知らない父親が残した遺書とも言える命のノートを持って‥あのノートが親父の気持ちを変えてくれたんだろうな‥クレアを抱きしめ、重い病の床にいる母親、自分の妹に会いに行く事を約束してくれたんだから‥さあ!」

そこまで言うと、和憲は大きな声で自分を鼓舞するようにこれから先の事を口にした。

「忙しくなるぞ!なんせ一度も海外に出た事の無い親父を初めて連れ出さなきゃならないんだからなあ!」

「あなたも‥行くの?」妻の問いかけに和憲は頷いて答える。

「クレアが同行しても、親父一人では無理だと思う。それにシンシアさんは親父の妹、僕はシンシアさんには甥になる。会うべきだと思う。」

「お姉さんにはこの事、伝えたの?」和憲の姉絵美子もシンシアにとっては肉親にあたるが、和憲はその問にも冷静に頷いて答えた。

「姉さんにはクレアさん親子の存在も、彼女が何故日本に来たのかも逐一話してる。勿論かなり驚いてたが‥でも十分理解してくれたよ。姉はすぐにはインドネシアに行くつもりは無いけど、家族の理解と協力が得られたら出来るだけ早いうちにインドネシアに行きたいと言ってた‥」

「そう‥」雅代は夫の言葉にゆっくり頷いた。とにかく病床にある肉親との対面は急がなければならない状況だ。旭は改めてこれから先の事を考えた。そしてどんな困難がこの先自分の家族‥身内に待ち受けようと、しっかり家族を支え乗り越えていこうと強く心に誓うのだった。

それから1年三ヶ月後高校を卒業し自衛隊に入隊した旭は、訓練期間を終え一人前の自衛官になった。自衛官になる為の訓練は本当に厳しくて、体力には自信があった旭でもへこたれる事もあったが、そんなときは自分と比べ物にならない位厳しい境遇を生き抜いた二人の曽祖父の事を思い、歯を食いしばって厳しい訓練に耐えた。そして今、旭の手には曽祖父が残してくれたあの命のノートがあった。思えばこの一年は若い旭にとって普通なら体験しないだろうあり得ない怒涛の月日だった。

クレアと息子の和憲と共にインドネシアに渡った祖父尊一‥旅立つ前に久し振りに会った祖父には、それまでの頑なで一途に戦争を憎んできた姿は微塵もなかった。実に穏やかな表情でそれでいて空港で見送る時も、どこか涙を浮かべているように見えた。

共に旅立つ三人を見送った祖母秀子は、祖父の変わりようについて孫の旭にこう語ってくれたものだ。

「クレアさんが持って来てくれたノートが、顔も知らない親子の絆を再び結んでくれたんだろうねえ、父親の自分への愛情を痛い程感じたってお祖父ちゃんそう言ってたわ‥」

「お祖母ちゃんもひいお祖父ちゃんが書いたノート読んだの?」孫の問に秀子は静かに答える。

「全部というか殆ど目を通したよ。所々読めない部分はあったけど、一応ねえ‥それにしても、酷かったんだねえ、あの人のお父さんが戦ってた戦争っていうのは‥でもよく生き延びて‥」

「でも結局、ひいお祖父ちゃんが奥さんにも息子であるお祖父ちゃんにも生きて会う事は無かった‥」

すると秀子はそんな旭の言葉に首を振りながら静かに返した。

「運命だったのかもしれないねえ‥でも誰も恨んじゃ駄目だと思う‥」

「お祖母ちゃん‥」秀子は自分を見る孫に優しい視線を送りながら、続けるのだった。

「随分遅くなったけど、命のノートとも言うべき遺品を通じてあの人はやっぱり父親に会えたんじゃないかなあ‥そう断言してもいいと私は思うよ。それだけあのノートは価値のあるもの。あのノートのおかげで、親子の絆が再び結ばれたようなもんだから‥」

「お祖母ちゃん‥」

クレアと共にインドネシアに渡った和憲親子‥その後の事は、和憲からの詳細な連絡で旭も秀子も勿論雅代もよく知っている。病床にある妹シンシアを初めて見舞った時、尊一が痩せ細った彼女の手を握り何と言ったかも‥英語が話せる和憲が訳しながら伝えても、その場にいる皆が涙無しでは居られない状況だったという。

「私がお前の兄尊一だ。お前は私のたった一人の大切な妹‥日本に来たお前の娘のクレアに、会ってやって欲しいといきなり頼まれた。勿論最初は驚いたし戸惑ったよ‥だが今私は言いたい。何故もっと早く名乗らなかった?兄と呼べる人間が日本にいるともっと以前からわかってたなら、何故もっと早く連絡を取り会おうとしなかった?そんなに病気が重くなってるのに、何故会うのを拒んだ?」

「に‥い‥さ‥ん‥?」‥

尊一の言葉を聞き病床の妹シンシアの口から弱々しいながらもその4つの日本語が漏れた時、日本人の兄とインドネシア人の妹は何十年もの時の流れと過酷な運命を乗り越えて堅く抱き合ったのだった。溢れる涙そして妹の痩せ細った身体を撫でながら兄は続ける。

「お前を責めるのは間違ってるんだろうなあ‥ごめんよ‥とにかく、まだまだ時間はある。沢山話そう‥父さんの思い出、いっぱい話してくれ!私も自分の事、家族の事沢山話すから‥まだまだ別れる時ではない。クレアもそうだが、やっと会えたのに私を残して死ぬ等許さない‥」

英語に訳して尊一の言葉をシンシアに伝える和憲の目にも涙が光っている。クレアもそう‥駆けつけたクレアの家族も七十数年目の兄と妹の対面を目にして感無量の面持ちだった。

それから尊一はクレアの自宅に長く厄介になり、連日病院に通って妹を励まし続けた。和憲は五日間しか休みを取る事が出来なかったので後ろ髪を引かれる思いで日本に戻ったのだが、幸いなことにそんな二人の境遇を知った現地に住む日本人のコミュニティが今度は和憲に代わって二人をサポートしてくれるようになった。最も重要なのが対話、その言葉の壁を払って二人が兄妹として最期の時間を過ごせるようにしてくれたのも彼らであった。シンシアは兄尊一と会えて励まし続けてもらったお陰で一時は主治医も驚く程の回復ぶりを見せたのだが、その状態も結局長くは続かなかった。兄との七十数年ぶりの対面を果たしてから約半年後、彼女の命は燃え尽きたのである。旭の脳裏からは、今も昏睡状態に陥って初めて目にした祖父の妹シンシアの姿が目に焼き付いている。伯母と共に初の海外、インドネシアに渡ったものの既に昏睡状態に陥っていた彼女とは直接言葉を交わせなかった。悔しかったあの時の思い‥命のノートを手にしながら旭は改めてこの嵐のような歳月を思い返すのだった。

今旭の手にある、曽祖父が連日の厳しい戦いの最中命を削リながら綴ったノート‥旭が自分の勤務先に持って来たのは、ノートの存在を聞き知った今の勤務先である駐屯地のトップから良ければ是非見せて欲しいという申し出があったからだった。彼は旭のもう一人の祖父尚徳の防衛大学校時代の後輩であり、二人は旧知の間柄だった。それで尚徳を通じてどうやらノートの存在を知ったらしい。妹シンシアと会って自分の父親がどれだけ日本に残した家族の事を思っていたのか、妹から父親のそんな姿を聞き1冊目だけでなく亡くなるまでずっと綴られ続けた何冊にもわたるノートでその切なさが滲み出た亡き父の心情が書かれているのを読み、それを読んだ祖父にはそれまでの戦争を憎み戦争をした日本を憎む頑なな姿勢がすっかり和らいでいた。自衛官になった孫を見る目も優しく、自衛隊を批判し嘗ての日本軍と同一視することなど全くなくなったのである。

孫の旭もそんな祖父の姿を嬉しく思っていた。すると、不意に尊一の事を思っていた旭に声がかかり、旭はいきなり駐屯地司令の部屋へノートを持参するように命じられた。

「直接、私がお持ちするんですか?」

てっきり上官に託すものとばかり思っていた旭は、部屋まで直接持参せよとの命令に正直面食らった。だが彼に持っていくよう告げた上官は、ただ頷くだけ‥旭は戸惑いながらも自分が勤務する駐屯地の司令、トップの部屋のドアに手をかけるのだった。

旭のノックに中から「入れ!」という力強い声がする。「失礼します。」と断り部屋に入った旭はやはり初めての体験に緊張を抑えきれなかった。

「曽祖父のノートをお持ちしました。」震える手で今の自分の勤務先の最も上に立つ人間にノートを渡す。受け取った駐屯地司令は穏やかな口調で緊張の極みにいる新人隊員の部下旭に声をかけた。

「有難う‥大切な遺品を自衛官とはいえ、赤の他人である私に見せる事を許して下さった君のお父様とお祖父様には本当に感謝している。そう伝えて欲しい。御礼の手紙を書いたので、いずれお二人の元には届くと思うが‥」

「はあ‥」当然だが目の前にいる司令の姿は若い旭には圧倒される存在感‥そんな緊張する部下を前に司令は部屋のソファに座るように言うと、静かに口を開いた。

「又失礼ながら君の曽祖父であるこのノートを書かれた方が、南方で終戦を迎えられた後インドネシアの独立戦争に参戦してその時負った怪我が元で向こうで亡くなられた事は先輩から聞いて知っている。向こうのインドネシア人女性との間で儲けた、お祖父様には妹に当たる女性と戦後七十数年ぶりに面会をはたし、二人のお父さんへの思いを共有した事も‥その後妹さんが病気で亡くなられた事も‥君は、その女性とは会えたのかね?」

「いいえ、もっと早く行けば良かったのですが私が伯母と駆けつけた時はもう昏睡状態で、そのまま‥意識のある彼女には会えませんでした‥」

父や祖父から伝え聞いていたシンシアの様子に、和憲の姉である伯母も旭もまだ大丈夫だと安心していた。それがいきなり‥何故もっと早く会いに行かなかったのか‥伯母もそうだが、旭とてその時どれだけ悔やんだかしれなかった。

「そうか‥」司令は旭の悔しそうな表情で二人の気持ちを悟ったらしく、静かにそう言っただけだった。旭はノートを渡すという役目を終えた以上もう自分はここにいてはいけないのではないかと、慌てて立ち上がろうとした。すると司令は穏やかな口調で旭にまだ話さないかと声をかけた。「はあ‥」戸惑うばかりの若い部下に座るように言うと司令は優しく口を開く。

「君は他の誰も経験しなかった特別な体験をした人間だと思う。その若さで先の戦争,そして戦後日本人には殆ど知らされてこなかった戦後の真実を自分自身の血筋を通して知る事になった。戸惑いは勿論あったと思う。今の気持ちを出来れば聞かせてくれないか?」

「はい‥」旭は戸惑ったが、今は素直に自分の思いを語るべき時だと決心して口を開いた。

「私もそのノートを読みました。曽祖父の戦争そのものや家族を思う気持ちが、痛い程伝わってきました。正に命のノートだと思います。ですがシンシアさんの娘のクレアさんが直接そのノートを持って来てくれなければ、私自身にそんな人生を辿った肉親がいたのも知らないままでしたし、その曽祖父の気持ちは祖父は勿論私達にも伝わらなかったし、自分は父親に見捨てられたという祖父の戦争を憎み戦争をした日本を憎み通してきた姿勢は今でも変わってなかったと思います。」

「うん‥」司令は頷きながらも黙って旭の言葉を聞いている。旭は緊張しながら尚も続けた。

「日本の戦後は余りにも歪んだ目線で日本そのものを捉え過ぎてると思います。日本は一方的な加害国でしかない‥そんな教育が日本の為に命を捧げた人達の存在を忘れさせ、戦後他国の為に命を落とした曽祖父達のような存在も知らされず‥あくまで戦争反対や反省の名目の元に、自国だけを否定し日本人である事に誇りを持つことがまるで罪悪のように戦後の日本人は思わされてきた。確かに戦争で日本は過ちを犯したでしょうが、それは日本だけではない。普通国家間の戦争では勝敗だけで善悪を決められるものではないと思います。敗戦国だった日本は一方的に裁かれて、謝罪や賠償‥課された責務は果たしてます。なのに今もなお歪んだ歴史観を受け入れ続けている。理不尽だと思います。私もこのノートを読みました。仲間が次々に死んでいく中で、曽祖父は戦場で自分だけが生き残ってしまった事に罪悪感を感じていたようです。命の恩人であるシンシアの母親の国インドネシアとオランダとの間で独立戦争が始まった時も、そんな罪悪感があったからこそ今一度帰国せずに参戦する道を選んだのかもしれないと思えるのです。」

「確かに、戦後アジア諸国の独立戦争に参戦した旧日本兵の方々には、そんな思いを抱かれてた方々もおられたんだろうね。罪悪感など抱く必要も義務も全く無かったのにねえ‥然し若いのにしっかりした考えを持ってるんだね、君のような部下がいてくれて良かったと思ってるよ。」

思いがけない司令の口から出た褒め言葉に、旭は顔から火の出る思いだった。

そして駐屯地司令との対面の後、仕事を終え寮に戻った旭は、興奮冷めやらぬまま受話器を握り、自宅の番号を押した。今日の出来事を早速父和憲に話す。話さずにはいられなかった。電話に出た和憲は興奮して喋り続ける息子の言葉を黙って静かに聞いていたが、旭が話し終わると優しく良かったなと一言答えただけだった。

「どうかしたの?父さん‥何だか元気無いけど‥」やはり親子、父の口調に何らかの異変を感じ取った旭が問いかける。

父は最初少し迷った様子だったが、思い切ったように口を開く。

「うん‥お前に話すべきか迷っていたんだが、実はお祖父ちゃん今度入院する事になったんだ。来月の始め頃、病院は市立の大きなとこ。まあお前も知っている行きつけの病院だけどなあ‥」

「えっ‥どこ?どこが悪いの?」常々健康だけが取り柄だと自慢していた尊一なのに‥旭が不安になるのも当然だったが、和憲は落ち着くように諭すと、口を開いた。

「いつもの通院でちょっと定期的な検査の結果が良くなかったそうだ。肺炎の疑いがあるって‥他にも数値が良くない点があってね‥念の為の検査入院のようなものだって先生は仰ってたが‥」

「だろうね!健康だけが取り柄ってお祖父ちゃんよく言ってたもの‥でも、大丈夫なんでしょう?」気楽な口調の息子を和憲は窘めるように口を開く。

「おいおい、お祖父ちゃんだってもう八十過ぎだよ!体のどこそこにガタがきてもおかしくない年なんだから。お前の子供の頃のままのお祖父ちゃんじゃないよ‥」

「それはわかってるよ!」父の言葉に思わずムッとする旭‥和憲は暫く沈黙した後、改めて息子に口を開き今度は尊一が入院する前に是非一度会ってやってくれないかと告げた。

「お祖父ちゃんも立派な自衛官になったお前の姿をきっともう一度見たいと思ってる筈だ。確か前回会った時は入隊していよいよ訓練が始まる緊張感でお前はガチガチだったもんな!お祖父ちゃん何も言わなかったけど、あれで結構お前の事心配してたんだぞ!」

「お祖父ちゃんが?うっ、うん‥わかった!今度の休みに会いに行けるように上に頼んでみる。そういう事情なら認めてくれると思うけど‥」

父の方から祖父に会って欲しいと言われるのは滅多にないので、旭は少なからず戸惑いを覚えた。和憲は大したことはないように言っているが、もしかしたら本当は命に関わるような重い病気ではないのか‥旭の脳裏に伯母と共にインドネシアに行った時に見た、意識の無いまま集中治療室で横たわるシンシアの姿が甦る‥だが和憲はそんな息子が抱いた不安を一瞬で払拭させるのだった。

「お前お祖父ちゃんが入院すると聞いて、インドネシアで見たシンシアさんの姿と重ねてないか?シンシアさんの最期を私達と看取る事になったのは若いお前にはショッキングな事だったろうが、心配しなくていい。お祖父ちゃんに命に関わるような病気の兆候はない。あくまで検査入院だよ。」

「本当に?」

「父さんがお前に面と向かって嘘ついた事あるか?ただ、お祖父ちゃんは気持ちの面では確かにへこんでるのかもしれない。シンシアさんとの別れを思い出して間違いなく辛い思いをしてると思うよ。父親とも妹とももう現実には会えない、二人の存在を忘れる事も出来ないんだからね。だから行ってそんなお祖父ちゃんの話し相手になって欲しいんだ。」

「僕が?僕が行って喜んでくれるかなあ‥」

戸惑う旭‥だが父はそんな息子を励ますように優しく言葉をかけるのだった。

「黙って話を聞いてあげるだけで、救われる場合もあるんじゃないかなあ‥父さんも勿論何度かお祖父ちゃんを心配して一緒に酒を酌み交わして話を聞いたが、お前が相手ならお祖父ちゃんの気持ちも違ってくるかもしれない。父さんも母さんも勿論お祖母ちゃんもだが、お祖父ちゃんの事が心配なんだ。入院する前に是非会って元気づけてやってくれ!頼むよ‥」

「うん‥わかったよ、父さん!」旭は力強く答えると、次の休暇で祖父に会う為に自宅へ帰る許可を得た。旭の勤務先は自宅の隣県にある割と大きな駐屯地だったが、そういう事情ならと入院する祖父を励ます為の帰省申請に勤務先の快諾を得る事が出来たのだった。

「尊一!尊一!」遠くで誰かが自分の名を読んでいる。(えっ‥)これは夢か?多分夢なのだろうが、それにしては余りにはっきり聞こえてくる。だがもう八十過ぎている自分の名前を呼び捨てに出来る人間などいない筈だ。声は若い男性の声、お袋じゃない‥否夢だ、自分は絶対に夢を見ているのだ。尊一は声の主の存在を強く否定した。そんな筈はない。父は死んだのだと‥それでも‥もしかしたら‥尊一はうっすらと目を開けて自分の名を呼ぶ人物の方を見ようとした。そして目を見張った。立派な軍服に身をつつんだ若き兵士がそこに立っているではないか‥(父さん!父さん!)夢じゃない。生きて会えなかった父が、やっと自分に会いに来てくれたんだ!そう思うと同時に涙が溢れ言葉にならない。ただ父さんという言葉だけが上手く発せられない状態のまま宙に浮かぶ。その時だった。

「お祖父ちゃん、僕だよ!大丈夫?」そこにいた筈の亡き父の姿は、今や一人前の自衛官となった孫の姿と重なっていつの間にか見えなくなっていた。

「旭‥?」ぼうっとして自分を見つめている祖父の姿を見て旭は心配になり、尊一の元に駆け寄った。「お前‥何故ここに?」弱々しい口調で孫に尋ねる尊一‥旭はひとまず祖父の背中に手を回しいつもの居場所である座椅子に座らせると、励ますように明るく答えるのだった。

「父さんに頼まれたんだ。来月入院するそうだね、検査入院だからそう心配いらないけどお祖父ちゃんの気持ちが落ち込んでるようだから、入院の前に一度会って励ましてやってくれないかって父さん言ってた。でもだから来た訳じゃないよ。僕も一人前になった姿をお祖父ちゃんに見て欲しいと思ってたから‥ねえところで夢見てたの?父さんって何度も叫んで泣いてたみたいだけど?」

そう言うと旭は祖父の頬に残る涙の跡をそっと手で拭った。尊一は少しも恥ずかしがる事なく、そんな孫に震える声で答える。

「お前の姿が一度も会った事の無い親父の姿と重なったんだ。」

「夢で僕をひいお祖父ちゃんだと思ったの?」孫の問いかけに尊一は頷く。

「夢の中で親父は確かに僕の名を読んでいた。昔の軍服姿の写真で何度も見てきた親父の姿‥会いたかった。言葉を交わしたかった‥シンシアと過ごした日々で尚更その思いは募った‥シンシアが話してくれた親父の姿‥最期の姿‥」

語りながらも尊一の頬に再び涙が伝う。「お祖父ちゃん‥」何と言って慰めていいか分からず旭は戸惑うばかりだったが、暫し咽び泣いた後やがて尊一は吹っ切れたように否自分自身に言い聞かせるように強く言い放つのだった。

「戦争の犠牲者は勿論、その遺族‥そして遺骨も無く生死も不明で魂でしか戦後祖国に帰還出来なかっ者‥不遇のまま死を迎え、戦後の日本人には存在すら記憶されなかった同胞も沢山いる。とにかく生きて会えなかったが親父の思いはしっかり身内である私達に伝わったんだ。それだけでも良かったと思わなければいけないのかもしれない‥」

「お祖父ちゃん‥」

旭には祖父のその言葉が今の祖父自身の気持ちに反して無理に発せられたような気がして、思わず強い口調で尊一に言葉を投げかけていた。

「なんか父さんの願いとは反するかもしれないけど、お祖父ちゃんもっと泣いていいと思うよ。もっと自分の思いを僕でいいからみんなに吐き出すべきだと思うよ!僕はひいお祖父ちゃんの生涯の日記ともいえるノートを全て読んだ訳じゃないけど、僕が読んだだけのノートの大部分にもお祖父ちゃんへの父親としての思いが溢れてた‥死んだものと諦めてインドネシアに戻ったが、生きて二人で自分を待ち続けていたのではないか‥きっとそうだ。もしそうなら、どんな人間に育ったのだろう、男なら尊一、女なら尊子と名付けて欲しいと伝えておいたが私には息子が生まれてるように思えてならない。無事に成長してくれていたら‥私の事を戦死したと思っているのだろう。でもインドネシアで生きて結局二人を裏切ってしまった形で暮らす事になった事実を知ったら、我が子は、息子は、父親である自分を恨むだろうなってそう書かれてたのを覚えてる‥」

「旭‥」尊一は懸命に語り続ける孫の姿をまじまじと見つめた。旭は自分の言葉が或いは祖父の心を更に傷つけてしまい兼ねない可能性を勿論危惧したが、それでも話しつづけた。辛い現実でも意識して受け入れ、祖父がその記憶を乗り越えて生きていけるように自分は話さなければならないのだ。いつしか旭はそんな使命感にも似た思いに駆られていた。

「なんて言って励ましたらいいかわからないけど、今お祖父ちゃんにとって大事なのはお祖父ちゃんの残りの人生をしっかり全うする事だと思うよ。大丈夫、お祖母ちゃんも父さんも母さんも僕達もいる。いつでも会って楽しく過ごせるんだから‥伯母さんだって仁大叔父さんだって大叔母さんだってまだまだ健在だよ。いつでも会おうと思えば会えるんだから‥ひいお祖父ちゃんが心残りだった我が子であるお祖父ちゃんの存在、そしてお祖父ちゃんのこれからの人生がどれ程幸せに満ちたものか、天国で見守ってくれてるひいお祖父ちゃん、それにお祖父ちゃんの妹であるシンシアさんにも見せてあげるんだよ。そしていつかお祖父ちゃんが天国に召されてひいお祖父ちゃんに会ったら、しっかり伝えるんだよ。決して恨んでなんかいなかった。父さんが自分と母さんの事をどれだけ思っていてくれたのか、あの残してくれたノートで痛い程わかったからって‥」

「旭‥」孫の自分を思いやる心のこもった温かい言葉に打たれたのか、尊一の頬に再び涙が伝う。

旭は再び祖父を力付けるように元気に声を上げた。

「さあ!お祖父ちゃんが退院する時は、僕は今以上に屈強な逞しい自衛官になってみせるよ。びっくりさせてやるから楽しみに待っててね‥お祖父ちゃんも身体は勿論精神的にももっと強くポジティブになってこの家に帰って来るんだよ!でないと承知しないからね‥」

「旭‥」孫の名を呼んだかと思うと、次の瞬間旭は尊一に強く抱きしめられていた。どこにそんな力があったのだろうと旭が不思議に思うほど、その力はこの上なく強いものだった。そして旭を抱きしめながら尊一の口からは「父さん‥父さん‥」という父親への思慕の情に溢れた言葉が漏れたのだった。

「お祖父ちゃん‥」さすがに旭も、その声を聞いた途端涙腺がゆるむのを感じた。親も子もどれだけ会いたかっただろう‥戦争さえなければ‥もし戦後のあの行き違いがなければ‥現代っ子の旭だが、曽祖父、そして祖父の姿を通して戦争が断ち切った親子の絆、肉親の絆がどれ程深く崇高なものだったか思い知らされたのだった。

そして祖父との久し振りの対面を終えた旭は、翌々日又勤務地へと帰って行った。別れる時尊一は、旭が子供の頃と全く変わらないいつもの気難しそうでそれでいて内面は寂しがってる様子だったが、それでもいつもの笑顔を見せてくれた。駐屯地に帰れば又いつもの厳しい訓練の日々が待っている。旭は思った。自分の二人の曽祖父は戦地に赴きそれぞれの立場で生き延びた。曽祖父は生きて息子には会えなかったが、それも又運命だったのか‥ただこれから先の未来ではそんな悲劇は起こさせない。国を守る正義‥自分もその一翼を担っているのだから‥旭は心に誓う。

「ひいお祖父ちゃんもシンシアさんもそしてもう一人のひいお祖父ちゃんも見ててね!現代の自衛隊は間違いなく日本の防人‥僕もその一員だよ!これからの日本は僕達が守る、みんなで今の平和を守っていくから‥もうひいお祖父ちゃん達が味わったような悲劇を日本にはもたらせ無い。その為に僕達がいるんだから‥」

そして空を仰ぐ旭‥雲一つない青い空が、まるで旭には今の自分に微笑んでくれてるように映るのだった。(了)