美也子は今、失意のどん底にいた。救急車で運ばれた病院で、医師に宣告された流産の現実を受け止めることが出来ないでいたのだ。夫貴之と結婚してすぐに妊娠がわかり、初めての子を夫婦で喜びに溢れて迎えられると信じていた矢先、仕事先で突然起きた体の異変‥病院のベッドで駆けつけた夫や家族と共に医師から流産した事実を聞かされても、美也子は信じることが出来ずただ呆然とし泣くばかりだった。
[だからもう仕事は辞めなさいってあれほど言ったのに!いくら悪阻が無くなったからって、あんたは元々丈夫な方じゃないんだから無理したらダメだって言ったのに‥]
娘の傷付いた心も構わず厳しい言葉を放つ母の聡子、だが幸いなことに夫の貴之はそんな娘を叱る義母を窘めてくれる穏やかな性格の持ち主だった。
[止めて下さい。今はそっとしとくべきです、お義母さん!何より傷付いてるのは美也子なんですから‥]
[そう?でもあなたにも申し訳なくて‥]
あくまで無理をした娘が悪いと言いたげな聡子に、貴之はしっかりした口調で前向きな言葉を口にするのだった。
[いえ、お医者さんもしっかり言われてました。今回は残念だったけど体に異常は無いしまだ若いんだから、まだまだ子供を授かるチャンスは十分ありますって!だから今はショックですが何とか乗り越えてみせます。‥なあ、美也子‥]
[あなた‥]
然し夫の優しい言葉に、今は却って涙が止まらなくなる美也子だった。そしてその夜、美也子は失意のまま病院のベッドで一人傷付いたその心身を休めることとなった。経過観察の為その夜はどうしても病院で過ごさねばならなかったのだ。夫は付き添いを望んだが病院の規則でそれも叶わなかった。体力が回復したら明日にでも帰宅出来ると医者から言われたものの、帰宅したらしたで流産するまで過ごした自宅での喜びに満ちた日々が思い出されるようで、どうしても不安を抱いてしまう美也子だった。
そしてその夜のことだった。一人寝付けないまま横になっている美也子の身に、不思議なことが起きた。うとうとしていたが決して眠りに落ちてない筈の彼女の目前に、一体の人形が不意に現れたのだ。
[えっ‥?]
それは丁度彼女が幼い頃家の倉庫から見つけ出し、[汚いから捨てるように]と強く叱責する両親の言いつけも守らず、夢中で遊んでいた幼い頃の遊び相手である少女人形とよく似ていた。
[えっと、名前は何てつけたっけ、私‥確か‥ルイ‥?]
夢か現かも定かでないままいきなり現れた人形を前に、美也子はぼんやりとそんなことを考えていた。
[でも何で?]何でここにあるのと思いながら、いつのまにか美也子は深い眠りに入っていた。
翌朝美也子は目覚めると同時に、何故か自分の今の現実より先に、昨夜夢で見たあの人形のことが頭に浮かんだ。
[ルイ確か小さい頃の私人形をルイって呼んでた‥何故ルイなのかも何故あの人形が夢に出てきたもわからない‥何故‥?]
訳もわからぬまま出された朝の病院食を口にして、その後受けた医師の診察結果を迎えに来た母と夫と共に待つ。二人の顔を見ていると、美也子は何故か不思議な程気持ちが落ち着くのを感じた。昨日はもうこれ以上涙は出ないと思える程、涙を振り絞ったのに‥と、そんな穏やかな表情の妻を見て、夫の貴之が優しく声をかける。
[思ったより落ち着いてるんでホッとしたよ。昨日はあれほど泣きじゃくって、もう見てられなかった‥]
[本当にごめんなさい、心配かけて‥]
自分も辛かっただろうに先ず妻の身を心配してくれる夫の優しい言葉に、美也子も誠実に答える。そんな娘夫婦の様子を無言で微笑みながら美也子の母は見つめていたが、美也子はふと気になって昨日の夢の中に出てきた、自分が幼い頃遊んでいた人形のことを聞いてみることにした。
[ねえ、お母さん。私が小さい頃家の倉庫で見つけた西洋人形のこと覚えてる?髪の長い可愛い女の子の‥]
[西洋人形?]
[うん、私が倉庫に仕舞いこんであったのをいつのまにか引っ張り出して遊んでた‥]
[人形ねえ‥]
怪訝な顔をするばかりの母だったが、[そう言えば‥]とやっとその頃のことを思い出したようだった。
[そう言えば、そんなことが確かにあったわね。そんな汚れた人形何処から持ってきたのって、お父さんと一度厳しく叱ったことがあるの思い出した。それでもあなたはその人形を手離さなかったのよね。お父さんもお母さんもそんなあなたに根負けして、人形に綺麗な服を着せて汚れも丁寧に拭き取った上で遊ばせたっけ!でも何故、そんな昔の事を?]
母の疑問は当然だった。そんな母に、美也子は昨日の夢にいきなりその人形が現れたのだと口にした。
[あなたが小さい頃遊んでたあの人形が‥変な話ねえ‥]
[でお母さん、あの人形はあれからどうしたの?]
傷心の妻をどう慰めようかそればかりを考えてきた夫の貴之は、いきなり遠い昔に遊んでいた人形の話に話題が移り何を言い出すのかと母以上に不安げな面持ちで妻を見つめている。そんな夫を安心させるように、美也子は笑顔を見せて今の自分の思いをしっかり語り続けた。
[心配しないで!懐かしいだけの思い出だけど、人形を見れて私は何故か無性に嬉しかったんだから‥そして不思議なことに、又頑張ろうという気持ちにもなれた。でも‥勿論もう処分しちゃったんだよね?お母さん?]
[それが‥]
当然の帰結として人形はもうないことを確認するように尋ねた美也子だったが、母の口はやはり重かった。
[それが‥]
[えっ‥?]
まさかまだ実家にあるとでもいうのだろうか?首をかしげる美也子に母の里子は最初躊躇っていたようだが、やがて重い口を開いた。
[あの人形は私の母、あなたのお祖母ちゃんの物でね、あなたが持ち出したのは今の家じゃなくてお祖母ちゃんの家の倉庫だったのよ。あなたが大きくなりもう人形で遊ばなくなってから、私はお祖母ちゃんに人形を処分したいって言ったんだけど、駄目って言われてね。絶対しないでって懇願されたわ。だから人形は今もお祖母ちゃんちにあると思うけど‥]
[えっ?何で?お祖母ちゃんあの人形にそんなに拘ってるの?]
尋ねるばかりの娘に、母の里子はひたすら困惑した表情で答える。
[私も詳しくは知らないんだけど、あの人形はお祖母ちゃんにとってとても大切な人の形見らしいと、そんな噂を聞いたことがあるの。勿論お祖母ちゃんにも直接聞いたんだけどなかなか教えてくれなくてね。]
里子の母であり美也子の祖母である道江は今年で八十三歳になるが、まだまだ家でも外でも毎日元気に働くお年寄りだった。幼い頃母の実家に行く度に二人の兄達と共に可愛がってくれたのを、美也子は大人になった今もよく覚えている。
[でも何故今そんな話を?昔あなたが遊んでた人形のことを?]
母が疑問に思うのは当然だったが、その答えは当の美也子でもわからなかった。
[私にもわからない。でも、人形の行方はわかったわ。今お祖母ちゃんちにある。まだある可能性が高いのね?]
畳み掛けるように問う娘に、里子は躊躇いながらも頷いた。
[ええ‥噂で聞いた通りお祖母ちゃんにとってそれが大切な人の形見なら、まだ持ってると思うけど‥]
人形がまだ処分されていない可能性があると聞いて、美也子は何故かホッとする思いだった。思えば流産し病院で傷付いた心と身体を休めていたその夜の夢にいきなりあの人形が現れたのも不思議なら、その人形の存在や行方につい固執してしまう今の自分自身も理解し難く不思議でならなかった。ただ、これだけは言える。人形は決して不気味な存在として美也子の夢に現れたものではなく、寧ろ美也子の傷付いた心を癒す為に現れたのではないか。確証は無かったが、流産のショックよりもあの幼い頃遊んでいた人形に夢で会えたことが不思議なくらい美也子の気持ちを落ち着かせてくれている現実が何よりそれを示していた。
その日の午後、受診結果は異常が無かったことを担当医から告げられ退院許可を得て自宅に戻った美也子は、どうしても仕事に戻らなければならない夫の貴之に笑顔を見せ、一人で大丈夫だから会社に行くように強く勧めた。
[本当に大丈夫?何ならお義母さんに来てもらおうか?]
[うっ、ううん‥私暫く一人でいたいの。自分の気持ちを立て直す為にもこれからのことをじっくり考えたいの。]
[これからのことって仕事?]
[それもある。やっぱり無理したらいけないってよくわかったから‥]
[美也子‥]
なおも心配そうに自分を見つめる夫に大丈夫だからと力強く頷いて、美也子は夫を仕事に送り出した。そして一人になると、美也子は改めてもうおなかにはいないこの世に生まれることなく天国に旅立ってしまった我が子に語りかけるのだった。
[ごめんね、ママが不注意だったばっかりに生まれることが出来なかった私の赤ちゃん‥あなたのことは絶対に忘れない。ママの最初の子供だもの‥あなたの弟か妹が生まれたとしても、ママがあなたを忘れることは永遠に無いよ。だから、これからのママを見守っててね‥]
もうおなかにはいない我が子に語りかけながら、美也子は自分の頬に涙が伝うのをしっかり感じていた。
と同時に美也子は悲しみを振り切りしっかり前を向こうと心に誓っていた。だが不思議な程自分を癒やしてくれたあの人形の謎だけは、やっぱり解明したいという思いは消えなかった。そして美也子は祖母にとって人形が一体誰の形見なのか詳しいことをいつか彼女に聞いてみようと改めて思うのだった。
出版社に勤める美也子は勧められるままに体を休める為の一週間の休暇を取ることにした。ジャーナリトに憧れその末端に少しでも肩を並べる存在になりたいと大学を出てから頑張ってきた美也子だったがなかなか現実は厳しく、地元の中堅の出版社に籍をおくのがやっとだった。それでも彼女が書く記事の内容は好評でしっかりした文章を書ける人というのが定評の美也子だった。だが今は仕事を忘れ心も身体も休めるべきなのだ。同僚だって流産という悲劇を味わった美也子にどう接すればいいのかきっと戸惑っているだろう。本音を言えば仕事に打ち込んだ方がその日の午後、受診結果は異常が無かったことを担当医から告げられ退院許可を得て自宅に戻った美也子は、どうしても仕事に戻らなければならない夫の貴之に笑顔を見せ、一人で大丈夫だから会社に行くように強く勧めた。
[本当に大丈夫?何ならお義母さんに来てもらおうか?]
[うっ、ううん‥私暫く一人でいたいの。自分の気持ちを立て直す為にもこれからのことをじっくり考えたいの。]
[これからのことって仕事?]
[それもある。やっぱり無理したらいけないってよくわかったから‥]
[美也子‥]
なおも心配そうに自分を見つめる夫に大丈夫だからと力強く頷いて、美也子は夫を仕事に送り出した。そして一人になると、美也子は改めてもうおなかにはいないこの世に生まれることなく天国に旅立ってしまった我が子に語りかけるのだった。
[ごめんね、ママが不注意だったばっかりに生まれることが出来なかった私の赤ちゃん‥あなたのことは絶対に忘れない。ママの最初の子供だもの‥あなたの弟か妹が生まれたとしても、ママがあなたを忘れることは永遠に無いよ。だから、これからのママを見守っててね‥]
もうおなかにはいない我が子に語りかけながら、美也子は自分の頬に涙が伝うのをしっかり感じていた。このショックを忘れられるような気がしていた美也子だったが、もう深くは考えずに美也子は静かにソファに身を沈めた。そし唐突に思った。
[そうだ‥決めた!この休み中に行こう!明日は早すぎるから明後日お祖母ちゃんに会いに行こう!休暇中の今しかない。仕事に復帰したらなかなか行けないんだから!]
神奈川の中堅の出版社に勤めている美也子だが、この休暇中に遠く離れた九州の福岡に住む祖母道江に会いに行くには先ず夫貴之の了解を得るのが先決だった。
[まあ君がお祖母ちゃんに会いたい、田舎でゆっくりしたいというなら僕は反対しないけど‥お義母さんは何て言ってるの?]
美也子の意向を聞いた後の貴之の質問に美也子は首を振りながら答える。
[あんまりいい顔はしてないかなあ‥心配性なのよ、お母さんは‥勿論心配させてきたのは私なんだけど‥]
[うん、でも僕は君がお祖母ちゃんに会いに行くのはただのんびりするだけじゃなく、何らかの目的があって行こうとしてるようにしか思えないけど‥もしかして君が言ってたあの人形のことが気になってるんじゃないか?]
[えっ‥]
さすがは夫婦、夫の貴之は美也子の思いを完璧に見抜いていた。美也子もそれならと今の自分の心情を有りのままに貴之に吐露する。貴之なら受け止めてくれると信じて‥
[流産したのはショックだったけど、事実は事実として受け入れてその上で必ず乗り越えるつもり、でも再出発する為にも私はお祖母ちゃんに会いたい、そしてあの人形が何故こんなにも私の心を癒してくれたのか、それが知りたい‥]
美也子は貴之に思いのままに自分の心情を吐露し続けた。
[何で夢に出てきた人形にそんなに拘るのか自分でもうまく説明出来ないけど、今はとにかくお祖母ちゃんに会わなければならない、会うべきだってそんな気がしてならないの。電話ではよく話してたけど、直接会うのは久し振りだからお祖母ちゃんもきっと喜んでくれると思うけど‥]
だが流産という今まで味わったことのない苦難を味わった孫娘に、祖母としてどんな顔をして接すればいいのか、道江は道江なりに戸惑うのは間違いないかもしれない。それでも会いたいのだ。この思いは自分の我が儘なのかもしれないが‥すると突然夫の貴之が大きな声で強く言い放った。
[わかったよ、思う存分お祖母ちゃんと話してくるといい。そして今の君が抱く疑念‥人形の謎を解明したいという思い?それを君のお祖母ちゃんが晴らしてくれてすっきりして帰って来てくれる事を願ってるよ!]
[有難う‥]
やっぱり私が生涯の伴侶として選んだ人は理解のある優しい旦那さま、この人の為にももう決して無理はすまい。美也子は、仕事も家庭も両立出来て当然だと思っていた今までの自分の考えを心から悔い改める気持ちになっていた。(今度子供が出来たら絶対に仕事は辞める。子供第一、家庭第一あなた‥約束するわ‥)
口に出さなくともそう誓った美也子は、二日後福岡に向かう機上の人となっていた。
新婚旅行以来の空の旅‥久し振りに祖母に会いに行くのはやはり美也子にとって嬉しいことだっだ。福岡空港に着いた美也子は、母が教えてくれた通りの順路で空港からバス、鉄道、それにタクシーを使って祖母道江が待つ家へと向かった。
[お祖母ちゃん、来たよ!]
何年ぶりだろう‥そこには幼い頃から幾度となく両親に連れられ訪れた昔ながらの家屋があった。
[懐かしいなあ、昔とちっとも変わってない‥]
祖父は数年前に病気で亡くなり、母の弟も結婚して美也子達と同様首都圏に住んでいるので文字通り祖母は高齢者の独り暮らし、離れているだけに姉弟はそれぞれ同居を考えるように母に話しているのだが、道江は頑として拒み決して福岡から離れようとしなかった。
古稀に近い美也子の父は定年を迎えた後、家で趣味の読書や将棋に耽りのんびり暮らしている。母と正反対で無口で物静かな父には、一緒に暮らすとなるとお祖母ちゃんも気を使うかなと母里子が時々こぼしていたのを美也子は覚えている。だがそんな感慨に耽る美也子を、祖母道江はこれ以上無い程の優しく力強い声で迎えてくれたのだった。
[よう来たね!美也子!]
[お祖母ちゃん‥]
気が付くと目の前には畑仕事でもしていたのか、ほっかむりをして手袋をした道江が少し汚れた服のまま佇んでいる。
[お祖母ちゃん!]
その姿に驚いて何をしてたのと問いかけようとする美也子の機先を制すると道江は手にしていた沢山の野菜や果物を可愛い孫娘に見せ済まなそうに口を開いた。
[ごめんね、迎えに行かんで‥その代わりご近所さんと共同で借りてる農園で作った作物をたくさんあんたに食わせようとさっきまで収穫しとったんよ!でもあんまり夢中になり過ぎて、あたば待たすっところだった。]
そう言って疲れたのか玄関先にへたりこむ祖母の姿に美也子は思わず声を上げて笑った。
[相変わらず‥子供の頃とちっとも変わってない、お祖母ちゃんも若いわ‥]
久し振りの祖母との再会はきっと自分を癒してくれて再出発する好機となってくれると信じる美也子だったが、同時に美也子の傷付いた心を不思議なくらい癒やしてくれた人形のあまりにも悲しい秘密をここ母の里である九州福岡で知ることとなったのである。
[まあとにかく入って!]
道江は忙しく久し振りに会った孫娘を家の中に招き入れると、荷物はそこ、あと冷蔵庫から好きなもの出して飲んどいてとだけ告げて、直ぐに家の奥に消えてしまった。多分着替えに行ったのだろう。程なくして姿を現した道江は、美也子が子供の頃覚えてるままの矍鑠とした元気な様子で可愛い孫娘に優しい眼差しを送りそしてゆっくり抱きしめてくれたのだった。
[お祖母ちゃん‥]
[何も言わんでよか!私がしたかったこつだけん。辛かったね‥あたが私と話すこつで立ち直る切っ掛けに少しでもなるとなら、お祖母ちゃんもしっかりあたが思いに応えようと思う。でも‥]
そう言ってくれたもののやはり不安なのか祖母の瞳には確かに戸惑いの色が滲んでいた。それでも道江はポツンと謎の言葉を口にする。
[あたは小さい頃から私によう似とった。だから鞠江お姉ちゃんはあたを私と間違えらしたつかもしれんね‥]
[鞠江‥姉ちゃん?]
[うん、お祖母ちゃんの叔母さんにあたる人であの人形の持ち主よ。人形は鞠江お姉ちゃんの形見なの。]
怪訝な表情で自分を見つめる孫の美也子に道江は重い口調でそれでもしっかりあの人形の元々の持ち主について重すぎる真実を美也子に話してくれたのだった。
道江は最初は躊躇いつつも、それでも口を開いた。そして真剣な表情で美也子に確かめるように尋ねる。
[あの人形の持ち主である鞠江お姉ちゃんのことを話すのはとっても辛いこと、女でしかも最近辛い体験をしたばかりのあたに話していいこつかどうか私にはわからん‥でも里子が言うとったけど、知りたかっただろ?どうしても‥]
祖母の問いかけに美也子も改めて大きく頷いて答える。
[うん、思えばあの人形は昔から私にとってずっと不思議な存在だった。知らぬ間に抱っこしてたし思いっきり遊んだ筈なのにその存在すら今度のことがあるまでずっと忘れてたし、でも私の夢に現れてくれた時は不思議な位気持ちが癒やされたのも事実なのよ。気持ちを新たにして再出発する為にも私は人形の謎が知りたい‥]
[それがとても悲しい話でも?]
すかさず訊いてくる道江の問いにも美也子は怯まなかった。
[ええ、だってお祖母ちゃんの叔母さんなら私にとっても身内じゃない!その鞠江お姉ちゃんのことを知るのに戸惑いはないわ!]
強く言い切る孫娘に道江は諦めたように頷くとゆっくり語り始めた。
[鞠江お姉ちゃんは私の父、あたの曾祖父にあたる人の一番末の妹なの。父には二人の兄と一人の姉、更に一人の弟と二人の妹がいたわ。その下の妹、七人兄妹の末っ子があの人形の持ち主の鞠江お姉ちゃんよ。]
[随分兄妹多かったのね‥]
率直な感想を思わず口にする美也子に、道江は昔は子沢山は普通だったと告げた。更に鞠江が辿った悲劇的な人生を孫娘に語って聞かせてくれたが、その表情には悲しみや怒りと共に亡き人を偲ぶ懐かしさも溢れていた。
[終戦時鞠江お姉ちゃんはまだ18歳の看護学生だった。私は七つかな?やっと物心ついたころ、叔母と姪の関係だけどそんなに年は離れてなかった。お姉ちゃんは婚約者と共に当時満州と呼ばれてた地に大陸の花嫁として入ってね‥]
[入植者ってこと?]
[そう‥日本人には殆ど知らされてこなかったことだけど、敗戦と共に外地にいた日本人がどれだけ惨い目に遭ったか、戦後の日本の教育ではシベリア抑留ぐらいしか教えられてないもんね。,]
[鞠江お姉ちゃんも、酷い目に遭ったの?]
恐る恐る聞いてみた美也子に祖母の道江はゆっくり頷く。その目にはいつしか涙が浮かんでいた。
[昔は結婚は早かったの、鞠江お姉ちゃんは幼馴染みの坂本逸朗さんという私にも実の兄のように接してくれた人と婚約して二人で大陸に渡ったわ。]
[大陸って当時の満州?]
[ええ‥逸朗さんは農家の三男坊で後継ぎでもないし、自分で思いっきり働いて暮らしていけるだけの農地が欲しかったのね‥看護学生だった鞠江お姉ちゃんは、学業をやめて家族の反対を押しきってまでそんな彼についていった。優しい人だったもの、逸朗さんは‥そして二人は開拓団の一員として生きることを決めたの。]
[だけど満州は中国、中国内に勝手に国を作って中国と戦争して、日本がしたことはやはり許されないことだったんじゃないの?その二人の純粋な心は認めたいけど‥]
思わず口を挟む美也子‥道江は孫娘の鋭い指摘にゆっくり頷くと遠い記憶を引き寄せるような眼差しで静かに続けた。
[当時の日本をそのまま正当化することは勿論出来ないでしょうね。間違っていなければ世界が認めてくれた筈だもの。でも当時の日本は何て言うか、いっぱいいっぱいだったのよ。]
[いっぱいいっぱい?]
訳がわからず尋ねる美也子、道江は穏やかな口調で更に続けた。
[日本だけじゃない。確かに欧米も特にアジア、アフリカなどの国々を植民地にして、その国の人達を奴隷のようにこき使ってる現状があった。日本からしてみればその流れに乗らなければ日本は同じように植民地にされてしまう‥そんな焦りもあったのかもしれないね。私はあんまし難しいことはわかんないけど、日本もなかなか酷い状態だった。生活出来ない特に農家など困窮家庭が娘を身売りしたり、父が言ってたけどとにかくそんな状態を抜け出し大陸に活路を見出だしたい!そんな思いで多くの人達が大陸に渡ったの。鞠江お姉ちゃんもそう‥]
[それで?]
せっつくように尋ねる孫娘に、道江は落ち着くように告げると更に続けた。
[現実に戦争となると、各国の日本を見る目も変わってくる。その先はあなたも知っているように正に坂を転がり落ちていくように敗戦へまっしぐら‥大陸や朝鮮半島にいた多くの日本人が戦後よ!日本がポツダム宣言を受け入れた後なのにどれだけ酷い目にあったのか、戦後国民は殆ど知らされてこなかった‥]
[そんな‥酷い‥]
[敗戦にうちひしがれた国民には、被害者である筈の多くの傷みや苦しみに寄り添う余裕など無かったかもしれない。でもそんな風潮は戦後何十年も続いてきたのが日本の現実なのよ‥]
[お祖母ちゃん‥]
悲しみと怒りに満ち溢れた複雑な表情の祖母、そして祖母の口から更にあの人形の持ち主だった鞠江に起きた悲劇が語られた。
それは戦後の平和過ぎる程穏やかな時代を生きてきた美也子にとって、信じられない衝撃的な内容だった。大陸にいた開拓団の男達は殆ど開拓団員を守る為の兵士の役目を担わされ、鞠江と逸朗も共に逃げることが出来ず鞠江は逸朗の身を案じながら開拓団の仲間と共に必死に日本を目指して逃げる道を選ぶしかなかった。というのも鞠江のお腹には逸朗との子供が宿っており逸朗から何としても無事に日本に帰り着いて生まれてくる子供と共に自分が帰って来るのを待っていて欲しい‥そう懇願されていたからである。美也子は二人が辿ったその後の運命を聞くのを空恐ろしく感じたが、それでも自分は聞かなければならないのだ‥そんな不思議な使命感でもって道江の言葉に全神経をもって耳を傾けた。
[でも日本はポツダム宣言を受け入れて負けを認めたんでしょう?それなのに武器もない民間人は一方的に酷い目に遭わされたの?]
[そう、そうよ!歴史は勝者によって作られるというけど、本当に容赦なかったそうよ。中国人や朝鮮人、ソ連兵‥日本人の女と見ると三栄もなく襲ってた‥戦争に負けた国の国民の人権などあって無きが如し‥]
[酷い‥]
怒りが沸き上がる美也子、日本人である限りそれは当然の思いだろう。
道江は怒りに震える孫娘を前にして話を続けていいものかどうか躊躇する素振りを見せたが、美也子の自分を見つめる真剣な眼差しに気圧されるように言葉を繋いだ。
[終戦時私はまだ幼かったから全ては大人になってから聞かされたことなんだけど、鞠江お姉ちゃんは奇跡的に何とか無事日本に帰り着くことが出来たそうよ。日本人には何をしても構わないと牙を剥く多くの外国人、ソ連兵もいたなかで‥]
[本当に?よく無事で‥でも敗戦を認めても殺されたり酷い目に遭わされたり、帰ってこれなかった日本人も決して少なくなかったんでしょう?]
[勿論そうよ、戦後日本人には学校でシベリア抑留の事実ぐらいしか教えられてこなかったけど‥彼等の同胞への蛮行はそりゃ酷かったそうよ‥]
美也子の問いに道江は大きく頷いて怒りに満ちた口調で続ける。
[なかには着の身着のままで逃げる同胞を助けてくれる優しい人達も確かにいたそうね。中国残留日本人孤児の事は、あなたも物書きの一人なら知ってるでしょう?]
[ええ‥]
[でも、死に物狂いでお腹の子と共に日本に帰ったのに鞠江お姉ちゃんには帰国してからの方が辛い運命が待ち受けてた‥]
[えっ?]
祖母の意外な告白にただ驚く美也子、そんな孫娘に道江は戦後の日本がひた隠しに隠し続けた闇の部分を鞠江の数奇な運命と静かに共に語ってくれたのだった。
[生まれ故郷である福岡にやっとの思いで引き揚げてきた鞠江お姉ちゃんを父さんを初め私の祖父母はどんなに喜んで迎えたか‥生きて帰ってこないかもしれないと半ば諦めていた末娘だっただけにその喜びはひとしおだった。でも‥]
そこまで口にすると道江は一段と低い声で鞠江達の一団が無事に帰れたのには公には出来ない密かな犠牲が払われた結果だった忌まわしい事実も告げた。
[みんなを無事に逃がす代わりに彼等に身を委ねる‥そんな女性達が数名選ばれたわ。奴等との交換条件だったのよ。]
[そんな、人身御供じゃないの?酷い、酷すぎる‥]
[鞠江お姉ちゃんが大きくなった私に泣きながら話してくれたのを今も覚えてる。酷いよね、戦争に負けた国の人間の命なんて虫けら同然になるんだから‥妊娠してなかったら鞠江お姉ちゃんは自分も選ばれたかもしれない。否、寧ろ今となってはその方が良かったのかもしれないって、あの時私に‥]
そこまで言うと道江は堪らなくなったのか溢れる涙を拭おうともせず黙り込んだ。
[それ、どういう意味?]
祖母の言葉の意味を尋ねる美也子、道江はやはりそんな孫娘にこれ以上辛い話をしていいものか戸惑いの表情を浮かべるのだった。
[戦後の平和な時代を何不自由なく生きてきたあなたに話していいことかどうか、私は本当に迷ってる。しかもあなたは流産して間もない。鞠江お姉ちゃんがどんな人生を送ったか、ホントに聞きたい?]
[ええ‥]
思わず力強く頷く美也子‥そして続けた。
[小さい頃からその鞠江さんの存在について一度も聞かされたことは無かった。あの人形を通じて私はその鞠江さんの存在を自分の辛い体験を通して、今痛い程感じてるの。お祖母ちゃんを可愛がってくれた年もそう離れてない叔母さんでしょう?だのに何故?]
[鞠江お姉ちゃんみたいに当時とてつもない悲劇に襲われた人達は、それを訴えることなく却って被害者の存在そのものを隠さなければならない風潮だったそうよ、父が言うあの頃は‥]
そう言うと道江は唇を噛み締め悔しそうな表情を浮かべて帰国後の道江を襲った許せない悲劇を口にするのだった。
[無事に日本に帰れたのに、敗戦にうちひしがれた多くの国民に奴等は容赦なく悪行の限りを尽くした。そんなある日鞠江お姉ちゃんは暴漢と化した数人の朝鮮人に襲われ、子供は流産し心にも体にも決して癒えない傷を負ってしまった‥]
[まさか‥]
美也子は言葉を失った。
[あなたもGHQのことは知ってるでしょう?マッカーサーをトップとするアメリカ進駐軍の存在は‥でもね、終戦直後の日本には、日本と戦った訳でもないのに勝手に進駐軍を名乗り無法の限りを尽くした輩共がいたの。進駐軍と名乗った彼等は殆ど朝鮮人だったと私は父から聞いてるわ。彼等の存在はなかなか公にならんかった。みんなその日を生きるのに精一杯で他人の不幸を気にかける余裕もなかったから‥その連中がある日いきなり鞠江お姉ちゃんを‥]
そこまで言うと堪えきれなくなったのか道江の頬には再び大粒の涙が流れた。だがそれでも鞠江に起きた悲劇を最後までちゃんと話さねばならない。今はそんな使命感を抱いて道江は懸命に言葉を続ける。
[妊娠してるのに家族を思い、家族の為に必死で働いてた鞠江お姉ちゃんをそいつらは‥なかなか帰ってこないお姉ちゃんを捜しに行った父が見たのは草むらで下半身血まみれになりながら呆然と突っ立てた鞠江お姉ちゃんの姿だったそうよ。]
[そんな‥]
言葉を失う美也子、そんな孫娘にそれ以上話していいのか戸惑いつつもやはり鞠江の身に何が起きたのかを語り続ける道江だった。
[驚いた父は自分が着てた上着で血だらけのお姉ちゃんの体を包み込むと、何とか近くで大八車を借りてお姉ちゃんを家まで連れ帰った。その時にはお姉ちゃんには殆ど意識は無かったそうだけど、お姉ちゃんの身に何が起きたのか、その姿を見れば一目瞭然だった。大八車に乗せられたお姉ちゃんの姿を見た時の祖父母の驚きと怒り、そして悲しみは想像を絶する程だったけど、どうすることもできなかったそうよ。警察に訴えても連中の暴挙を罰することなどまだその頃は出来なかった。それどころか‥]
[それどころか?]
鸚鵡返しに尋ねる美也子に、道江は悔しそうに唇を噛み締めて続ける。
[被害者なのに、何も悪いことしてない被害者なのに、私達が白い目で見られたわ。勿論同情して奴等を怒ってくれる人もいたけど、みんな無関心か何やってるんだ?油断してた自分が悪いんじゃないかって‥]
[酷い‥]
[終戦直後の日本、みんな生きるのに必死だったからね。とても他人のことに気を使う余裕は無かったのかもしれない。でもね!]
語気を強めて祖母道江の話は続く。
[鞠江お姉ちゃんだって尊い一人の人間なのよ。お姉ちゃんが一体どんな悪いことをしたというの?その頃日本人には何をしても許されるという風潮が確かに大勢の引き揚げ者がいた大陸や半島だけでなく終戦直後の日本にも蔓延してたわ。日本人には戦後精々原爆やシベリア抑留の事実しか教えられてこなかったけど、同じ人間なのに日本人に酷いことをしてきた連中の蛮行だけは殆ど無罪放免になってきた現実、多くの日本人が知らない。本当に許せないことなのに‥]
[お祖母ちゃん‥]
悔しそうな表情で鞠江のことを語り続けていた道江は美也子の声にハッとし、やっぱり辛い体験をしたばかりの可愛い孫娘に聞かせる話ではないと考えたのか話すのを止め立ち上がろうとしたが、美也子は強くそれを押し止めた。
[私もジャーナリストの端くれよ。最後まで聞きたい、聞かせて欲しい。鞠江さんは私の親族でもあるんだよね。そんな彼女の存在が何故隠されるだけだったのか、日本はおかしい、おかしいと思うから‥]
怒りを込めて呟くように口にする美也子を前に決心したように頷くと道江は再び語り始めた。
[父さんが人目を避けて運び込んだ診療所で、鞠江お姉ちゃんは三日三晩意識が戻らず生死の境をさ迷ったそうよ。やっと意識が戻った時はまるで魂の脱け殻のようになってたって。子供は流産、旦那さんの生死もわからずその上乱暴され赤ちゃんもダメになったことでもうお姉ちゃんは生きる気力を完全に無くしてた。数日後そんな末の妹を父さんは連れ帰り家族は家の離れに住まわせた。世間の目もありそうするしかなかったから‥]
[お祖母ちゃん‥]
遠い昔の思い出を口にする道江、辛そうな表情に戸惑う美也子だったがそれでも祖母の話は最後まで聞かなければならないのだ。自分は紛れもなく日本人であり鞠江の肉親なのだから‥言い知れぬ使命感のようなものを抱いて美也子は祖母を見つめる。そんな孫娘を見つめながら、道江は戦後の日本で培われた歴史観がいかに不平等で歪んだものであったか、鞠江の運命を通して切々と訴えるのだった。
[その頃の鞠江お姉ちゃんの事は、私は小さかったからよく覚えてないんだけどね。全て大きくなって父から聞かされたこと‥だけどここからは大きくなった私が体験してよく覚えてること‥]
[お祖母ちゃん‥]
ともすれば躊躇いがちになる自分に鞭打つように、道江の話は続く。
[お姉ちゃんの存在もうちでは隠されてたそうよ。祖父母は嘆きながらも何とか元気を取り戻してくれることを望んでたけど、疎開先から母と共に父の元に戻った私は、鞠江お姉ちゃんがそんな酷い目に遭ってたことも知らなくて‥]
[お祖母ちゃん‥]
[酷いもんだよね、どんなに娘を不憫に思ってもその頃の風潮じゃそんな被害に遭った方が悪いとか当時そんな人達は大勢いたのに自業自得だと言わんばかりに被害者の方が白い目で見られかねない世の中だったんだから‥]
[そんな‥酷すぎるよ。]
[そんだけ戦争に負けたってことが日本人の心を惨めにさせてたんだろうね。食べるものもろくに無くてみんな自分が生きることに必死だったから‥でもだからといってお姉ちゃんみたいな抗議の声も上げられなかった奴等の蛮行の日本人被害者、多くの同胞の人権を踏みにじっていいってことにはならないのに‥]
そこまで語った道江の語尾は怒りに震えていた。
そして道江は自分を落ち着かせるようにゆっくり息を吐くと、再び話し始めた。
[父は家を出て近くに家を借り、母と私と三人で暮らし始めた。普通に会社員っていうの?仕事を始めそのうち弟と妹が生まれその頃の日本も戦後の苦境から漸く抜け出しつつあって子供だった私は普通の当たり前の幸せを感じてた。でも父はなかなか家族を実家に連れて行こうとはしなかった。行く時はいつも一人、祖父母に会いたかった私はそれがとても不満だった。何故?聞いても父はいつもはぐらかしてちゃんと答えてくれなかった。全く行けなかった訳じゃないけど、思いっきり祖父母に甘えたかった私は小学校三年生の時だったかな、思いきってある日一人で家へ向かったの。伝え聞いてた住所をメモした紙だけを持って、人に聞きながら‥そしてその日、私は祖父母に会う前に父の実家で再会することになったわ‥鞠江お姉ちゃんと‥]
[お祖母ちゃん‥]
思いがけない再会に子供だった祖母道江はどんなに戸惑っただろう。察するに余りある。だが意外なことに再会の思い出を語る道江の表情は嬉しそうに微笑んでいた。
[最初は思い出せなかったの。鞠江お姉ちゃんのことを‥当たり前よね!可愛がってもらってたのはとっても小さい頃だから‥それから鞠江お姉ちゃんは大陸へ‥私は戦況が厳しくなって田舎の母の親戚宅へ疎開したから‥それでも少しずつ正気を取り戻してきてた鞠江お姉ちゃんには、私が誰かわかったみたい。多分祖父母から父である兄と家族のことは聞いてたんでしょうね。只々ぽかんとしてた私に優しく語りかけてくれたの。『道江ちゃん‥だよね』って‥]
[立ち直れていたの?鞠江さんは‥]
何故か恐る恐る口にする美也子に、道江はゆっくり首を振って答える。
[端から見たら普通と変わらないまで回復したように見えたかもしれない。でも時々思い出してどうにもならないぐらい苦しんでた。父が大きくなった私に話してくれたわ。包丁など刃物や紐など当時は一切鞠江お姉ちゃんの目の届く所には置けなかった。勿論片時も目を離せなかったって、家族はどれだけ大変だったか‥辛かったか‥]
[お祖母ちゃん‥]
当時の父や祖父母の苦しみを思いやったように、道江は今度は険しい表情になって続ける。
[鞠江お姉ちゃんの存在は世間から出来る限り隠されてきた。知られたら何を言われるかわからない。家族にはそんな不安がいつも付きまとってたそうよ‥]
[何故?]
思わず強い口調で聞き返す美也子‥
[鞠江さんは被害者じゃない?何も悪いことしてないのに一方的に酷いことされた被害者でしょう?だのに何故、被害者が世間の目から逃れるように生きなきゃいけないの?糾弾されるべきは鞠江さんに酷いことした奴等じゃない?]
美也子の怒りは身内としてだけではなく、人として抱く当然の思いだったと言えよう。そんな孫娘に道江は、鞠江だけでなく当時多くの日本人が味わった苦境について更にその現実を語るのだった。
[惨い事実だけど当時鞠江お姉ちゃんのような目に遭った日本人は決して少なくなかったのよ。被害者には抗議の声を上げる権利も機会も殆ど無かった。これが戦後の日本の現実よ‥]
[そんな‥]
悔しさのあまり思わず涙目になる美也子‥そんな孫娘に道江は初対面の後の鞠江との思い出を、今度は静かに語って聞かせるのだった。
[鞠江お姉ちゃんは吃驚してる私に、自分は道江ちゃんのお父さんの末の妹で私は凄く小さい頃のあなたをよく知ってるの。大きくなったわねって私を抱き締めてくれたわ。抱き締められた時懐かしい匂いがして、一瞬だけど幼い頃の思い出が甦ったような気がした。確かに私はこのお姉ちゃんを知ってるって‥]
[立ち直れてたの?鞠江さんは?]
[私の前でだけそう見えたのかもしれないけど、無理してそう振る舞ってたのかもしれない。子供だった私にそんな辛い体験話せる筈もないし‥祖父母も両親も私が勝手に実家に行って鞠江お姉ちゃんと会ったことにただ驚いてた。言うまでもなく私は両親に問い質したわ。何故鞠江お姉ちゃんがお祖父ちゃん達の家にいるのを黙ってたのかと‥子供だった頃は勿論みんなはっきりその訳を教えてくれなかった。私が鞠江お姉ちゃんが味わった悲しみの全てを知ったのは、お姉ちゃんが亡くなってからだったのよ。]
[お祖母ちゃん‥]
美也子は間違いなく親族の一人だった女性の悲しい生きざまを祖母と偲ぶ‥
[何故鞠江お姉ちゃんのことを両親も祖父母も進んで話してくれないのか、それどころかそれから私が会いに行こうとするとみんな止めようとする‥私には不思議でならなかったわ。でも私はそんな反対など押しきって鞠江お姉ちゃんに会い続けた。そして私が中学に入ったばかりの頃かな?ある日初潮があった事に戸惑った私はついお姉ちゃんに尋ねてしまったの。お姉ちゃんの時はどうだったって?すると‥]
そこまで言うと道江は不意に顔を歪めながらも、振り絞るような声で話を続けるのだった。
[お姉ちゃん、おかしくなってしまった‥表情を強ばらせ急に泣き叫び、狂ったように自分を傷つけようとし始めた。私の他に誰もいなかったから凄く怖かったけど、それでもお姉ちゃんが自分を傷つけようとするのだけは何とか止めなきゃって、私必死だった‥幸い祖父母が直ぐに帰って来てくれたけど、泣いてる私を見て何も言わずにすぐ帰れって、そう言っただけだった‥]
何があったのか孫から聞かずとも二人にはすぐわかったのだろう。美也子は言葉もなく祖母を見つめるだけだった。
[それから‥]
悲しい記憶を呼び起こしながらも自分に鞭打つように道江の話は続く。
[鞠江お姉ちゃんとは暫く会えなかった。家族にしてみれば当然よね。無論父からも強く止められてたわ。その頃の私は何故と尋ねる気持ちも反発する気持ちも起きなかったの。だけど思えば鞠江お姉ちゃんがどんな辛い目に遭ったのか、私は子供ながらに薄々感付いてたのかもしれない。久し振りに会った時から、幾度となく話してるうちに鞠江お姉ちゃんからは言葉に言い尽くせない辛い思い出を隠してる様子がひしひしと感じられたから‥私に聞かれても自分のことは絶対に話そうとしなかったし‥]
[お祖母ちゃん‥]
[でもね!]
道江は今度は涙を浮かべながら、幸薄かった叔母との別れを震える声で口にする。
[父さんから突然、道江、鞠江お姉ちゃんに一緒に会いに行こうって言われたの。ある日突然に‥訳がわからなかったわ‥それでも私は父さんと一緒にお姉ちゃんに会いに行った。行かなきゃならない。何より鞠江お姉ちゃんが私に会いたがってるんだから‥そう思って‥でも行った先は父さんの実家じゃなくて病院だった‥]
[病院?]
[病院?]
祖母の話の先に不吉な予感を覚えて、美也子は思わず身構えた。だが祖母の話を聞くことを拒否しようとは思わなかった。道江はそんな美也子を前に目を閉じると静かに言葉を続ける。
[お姉ちゃんが結核に冒されてることがわかってね。病院から専門の施設に移ることになったそうなの。それでね、移る前にほんの少しでいいから私と話したいって、お姉ちゃんが‥]
[結核‥]
[終戦から7年目、嘗ては死病と怖れられてたこの病気も、随分光明が見出だせるようになってきたのは事実、お姉ちゃんに会う前に父さんに言われたわ。お前に話していいのか、再び鞠江に会わせていいのか今も迷ってるが、何より鞠江が望んでる‥サナトリウムで必ず体を治して元気になって帰ってきてくれるように、お前から叔母さんに声をかけて励ましてやってくれってね。]
[お祖母ちゃん‥]
辛すぎる現実の連続に美也子は言葉もなく祖母を見つめる。
そんな孫娘を前に道江は表情を変えず淡々と話し続けた。
[父の言葉はとにかくショックだったけど、お姉ちゃんが私に会いたがってるのなら会わなければならない。私はそう決意して病院に向かったわ。病室に入るとお姉ちゃんは窶れてはいたけど、私を見て嬉しそうに笑顔を見せてくれた。開け放した部屋の衝立ごしにお姉ちゃんは私に怖い思いをさせて済まなかったってこの前のことを詫びたわ。ここを離れる前にどうしてもあなたに謝っておきたかったって‥私は答えたの、お姉ちゃんが謝ることないしお姉ちゃんだけが苦しむことない。お姉ちゃんは被害者だって!誰からも救いの手がさしのべられなくても人として何一つ恥じる必要など全く無い、恥じるべきはお姉ちゃんみたいな弱者に酷いことをしながら罪の意識の欠片もない連中だと‥同じ日本人が惨い目に遭っても戦争に負けたのだから泣き寝入りするしかないと冷たい視線しか向けない当時の日本の風潮だと‥]
[お祖母ちゃん‥]
その通りだと強く頷きながら道江を見る美也子‥
道江は遠い記憶の底に封じこめていた鞠江との辛い思い出を、絞り出すように語り続けるのだった。
[私の言葉を聞いて父さんは驚いてた。そりゃそうよね、鞠江お姉ちゃんの過去については父さん自分の末の兄弟であり、幼い頃の私をよく可愛がってくれたってそれだけしか私に話してないもの。でもあの半狂乱になって自分を傷付けようとする鞠江お姉ちゃんを必死になって止めた時から、私にはお姉ちゃんの身に何が起きたのか察しがついたの‥というかその頃は少しは落ち着いてたけど、まだまだ戦後すぐは日本人は結構日本にいた朝鮮人?外国人に酷い目に遭わされることがあったから‥そんな光景を何度か目にしたことがあった。子供ながらに怖いと思ったし‥]
[お祖母ちゃん‥]
戸惑いの表情を見せる美也子に静かに頷きながらも道江の話は続く。
[彼等にしてみれば日本は戦争で悪いことばかりしてきたんだから、これぐらいの酬いは受けて当然と言うかもしれない。でも、でもね‥]
唇を噛み締める道江の目に再び涙が浮かぶ。
[お姉ちゃんみたいな人権の欠片も訴えることが出来ないまま死んでいった日本人は大勢いたのよ!お姉ちゃんがどんな悪いことをしたって言うの?お姉ちゃんに酷いことをした国の人間が戦後何十年も経った今でも、被害者ヅラして日本に謝れ謝れって!お姉ちゃんには誰も謝ってはくれなかったのに‥]
確かにそうだ‥美也子は思った。日本の一方的な加害責任を認めた河野談話を契機に、大手メディアが取り上げた慰安婦問題、日本国内の左派団体も一気に日本の戦争責任だと追究し世界でも喧伝されその後慰安婦像が世界各地に建てられた。安倍政権の時には米政権の仲介の元日韓で慰安婦合意が成立し、互いにもう触れないように確約された筈なのだが、反日志向の強かった韓国前政権は見事にそれをひっくり返し今も日韓の懸案となっている。考え込む孫娘を前に道江の辛い回想は続く。
[それでも、私と会えたことで私と話せたことでお姉ちゃんは大部生きる気力を取り戻してくれたように思えた。私言ったの、お姉ちゃんは決して汚れてなんかいない。昔のように綺麗なままだよって‥]
辛い思い出を回顧しながら道江の話は続いた。
[お姉ちゃんは私の言葉に何も言わずにただ優しく微笑んでくれた‥私はお姉ちゃんに言ったの!元気になって必ず帰って来るって約束してって!そしたらお姉ちゃん今度は強く頷いて言ってくれたのよ!約束するって、必ず元気になって道江ちゃんに会いに戻って来るって!それなのに‥]
[お祖母ちゃん‥]
その先の言葉を聞くのが怖くなって美也子は思わず息を飲んだ。そして祖母の言葉は、やはり美也子が予想した通りのものだった。
[お姉ちゃんが旅立って一年も経たない頃かなあ。父から聞かされたわ。お姉ちゃんが昨日の夜遅く病院で亡くなったって‥祖父母と両親、駆け付けられる家族はその最期に立ち合うことが出来たんだけど、子供だった私は呼ばれなかった。私は何故連れて行ってくれなかったのか、両親に抗議したわ。そしたら父に言われたの。父はあんな辛い場所におまえを連れて行ける訳ないだろうって、泣いてたわ。父の涙を見て私も何も言えなくなってしまって‥]
[お祖母ちゃん‥]
半ば嗚咽しながらも道江は言葉を続けた。
尚も道江の辛い回想は続く。だがどんなに辛い内容でも、自分は祖母の話を聞かなければならないのだ。鞠江という女性は間違いなく自分の身内であり血が繋がっていた日本人なのだから‥だが道江はこれ以上辛い思い出を語るのを躊躇う素振りを見せた。
[ごめんなさいね、流産したばかりのあなたに話していいことではなかったろうに‥]
言葉もない孫娘がどれだけショックを受けているか、その心情を汲み取り鞠江のことを話して良かったのか躊躇する道江だったが、美也子はそんな戸惑うばかりの祖母にきっぱりとした口調で答えた。
[ありがとう、話してくれて‥私はこれでもジャーナリストの端くれ、鞠江さんのような被害者の人権が戦後の日本で何故ずっと置き去りにされてきたのか、その一方で日本は性奴隷の国って慰安婦問題なんかではっきりした証拠もないままずっと非難され続けてきた。おかしいよね!鞠江さんや同じような目に遭った日本人被害者は日本人なのに祖国にも人権無視されて、一方では被害者アピールを続ける国々の非難に日本は頭を下げ続けて、そんな彼らの犯罪で苦しんだ鞠江さんのような被害者が多くいたのに酷いと思うわ‥]
美也子の言葉に道江は達観したように先の戦争について静かに語り始めた。
[戦争はいつも勝った方が正義になる‥でも私は、人間の歴史で今まで過ちを冒さなかった国など一つもなかったと思うのよ。ただ勝者が冒した過ちは何一つ罰せられることは無いのが世の常だったけど、だからといって無抵抗な人々を殺戮したり苦しめた罪が赦されることはないと私は思ってるわ。]
[原爆や空襲、シベリア抑留など?]
美也子の指摘に道江は頷きながらも続ける。
[それは日本人としての当然の思いよね。日本人なら当然思うこと。でも空襲なら日本も中国で行ってるのよ。まだ私が学生だった頃知り合った中国人の友達は、重慶‥だったかな、日本軍の空襲で親族の半分を亡くしたって涙ぐんでたわ。私は何も言えなかった。戦後何十年も経って私が今言えるのは、勝敗でその国の人間の価値を判断してはいけない、罪無き人の人権は国籍を問わず守られ鬼畜のような蛮行を冒した人間は国籍を問わず罰せらるべきということ、然し戦後の日本は決してそうではなかった‥]
[お祖母ちゃん‥]
道江の回想は続く。
[鞠江お姉ちゃんのような存在は戦後一貫して日本人に知らされることは無かった。日本は一方的な加害者と決めつけられ、今でも世界で貶められ謝罪と賠償を要求され続けてる。敗戦国として裁かれ国際法を守り国家間の約束を守り続けた結果がこれ‥これじゃあ鞠江お姉ちゃん達のように人権はおろか、存在すら無視されてきた日本人被害者はとても浮かばれないと思うわ。]
穏やかな口調だが道江の言葉には、鞠江のような存在を無視し続けておいて日本だけが絶対悪という歪んだ歴史観を唯々諾々と受け入れ続けてきた、日本そのものへの明らかな怒りが込められていた。
[何でこんな日本になったんだろうね‥戦争は憎んでも日本人が日本そのものを否定するべきじゃなかったのに‥過ちは過ちとして猛省してももっと公正な目で日本人は先の戦争を捉えるべきだったのに‥でなければお姉ちゃんのように罪無くして亡くなった人たちが浮かばれない。]
確かにそうだ。美也子は祖母の言葉に大きく頷いて口を開く。
[私の傷付いた心を癒してくれたのは、その鞠江お姉ちゃんの人形だったのかそれとも私をお祖母ちゃんだと勘違いした鞠江さんの魂だったのか、はっきりとはわからないだろうけど、これだけは言える。というか私は鞠江さんの魂に声を大にして誓うわ。鞠江さんだけじゃない、同じような辛い目に遭いながら日本人であるが故に人権の欠片も認められることなく死んでいった多くの日本人の魂に誓うわ。あなたを忘れない、あなた方を忘れない。存在すら無きものにされてきた理不尽な現実をそのまま容認し続ける日本社会じゃ駄目なのよ。日本の加害性だけが強調されながら方や弱き被害者は今まで通り置き去りにされてる。私は訴え続けるわ。これから‥]
[美也子‥]
感慨深げに孫娘を見つめる道江の瞳に涙が浮かぶ。遠い昔に忘れようと心に言い聞かせたあの辛い記憶をこのような形で孫娘に話すことになろうとは道江も全く思っていなかったが、美也子に鞠江のことを話したことを道江は全く後悔していなかった。
[私の傷付いた心を癒してくれたのは、その鞠江お姉ちゃんの人形だったのかそれとも私をお祖母ちゃんだと勘違いした鞠江さんの魂だったのか、はっきりとはわからないだろうけど、これだけは言える。というか私は鞠江さんの魂に声を大にして誓うわ。鞠江さんだけじゃない、同じような辛い目に遭いながら日本人であるが故に人権の欠片も認められることなく死んでいった多くの日本人の魂に誓うわ。あなたを忘れない、あなた方を忘れない。存在すら無きものにされてきた理不尽な現実をそのまま容認し続ける日本社会じゃ駄目なのよ。日本の加害性だけが強調されながら方や弱き被害者は今まで通り置き去りにされてる。私は訴え続けるわ。これから‥]
[美也子‥]
感慨深げに孫娘を見つめる道江の瞳に涙が浮かぶ。遠い昔に忘れようと心に言い聞かせたあの辛い記憶をこのような形で孫娘に話すことになろうとは道江も全く思っていなかったが、美也子に鞠江のことを話したことを道江は全く後悔していなかった。
美也子は道江から聞かされた確かに血の繋がった親族であり、この世に生をうけた不幸な日本人鞠江の存在を何らかの形で訴えたいと心から願った。祖母の家で数日過ごし傷付いた心と身体を癒しながら、同時に理不尽な被害による悲しみを誰にも一切吐露することなくひっそりと耐えるしかなかった鞠江と同じ立場の多くの日本人被害者のことを思わずにはいられなかった。
(歴史は誰の目から見ても平等で公平なものであるべきなのに、日本の戦後史はあまりにも一方的で偏り過ぎてる。日本の加害性だけが真偽も定かでないまま強調され続けて、日本人が知るべき同胞への人権侵害や日本が被った理不尽な事実は多くが隠され蔑ろにされてきた。それが今も続いている‥日本が戦争で過ちを犯さなかったとはいわない。でももういい加減歪んだ歴史観を受け入れるのは止めよう、日本は日本人の国、日本政府が日本人の人権だけを無視し続けるなんて間違ってる!)
何が鞠江のように惨い目に遭っても抗議の声も上げられず、存在すら無視されるような今の日本社会を作り上げたのだろう。それは一つは教育‥
一週間の滞在を終えて祖母道江宅を出る時、自分は自分なりにジャーナリストの端くれとして今の日本が置かれてるあまりにも一方的で理不尽な立ち位置を是正する為に頑張ってみる、鞠江さん達のような日本人なのに祖国にも人権を無視され続けた不幸な同胞の為にもと道江に告げたが、道江は敗者は人権どころか物を言う資格すら奪われるのが世の常だからと寂しそうに答えただけだった。
[お祖母ちゃん‥]
それでも心配そうに自分を見つめる孫娘に不安な思いをさせてはいけないと思い直したのか、道江は今の元気なあなたを見て鞠江お姉ちゃんはきっと喜んでくれてる、たとえ美也子を昔の私と間違えて励まそうとしてくれたとしてもと言ってくれた。
祖母宅から帰った美也子は、心配して来てくれた母聡子には祖母から聞かされた鞠江の事は話さなかったが、母が帰宅し夫貴之と二人になった時、祖母から聞かされた鞠江の存在と彼女がどれだけ不遇な生涯を送ったのかを涙ながらに語った。語らずにはいられなかった。
夫の貴之は美也子の話を冷静に黙って聞いていたが、語り終えた妻に深い溜め息を漏らしながら鞠江のような人権の欠片もなく歪められた日本の戦後史に消えていった日本人被害者の存在を今の日本で国民に周知させるのは、そう簡単なことではないだろうと呟くように言った。
[何故?]
美也子の問いに夫貴之は淡々と答える。
[もう教育で日本の加害事実だけが強調され、日本人に加害者意識だけを刷り込ませる自虐史観教育が戦後何十年も続いてきたからね。戦争の悲惨さを後世に語り継ぐのは大切なことだけど、それはあくまで歴史の真実や人々の人権を公平公正な目線で捉えた上でなくてはならなかったのに、戦後の日本は全くそうじゃなかった。その結果メディアも日本を否定し歪んだ歴史観で育ったエリート達も公平な目線で見た歴史の真実も人権の重さも顧みず、自分の見聞きした範囲内だけで日本を非難し続ける‥]
[理不尽だと思うわ、どこまでも‥]
美也子の口からそんな言葉がついて出た。
妻の怒りに満ちた言葉に頷きながらも答える貴之の冷静な口調は、戦後何十年にも渡って行われた現実がそう簡単に覆される可能性が低いことを如実に物語っていた。
[みんな日本人の被害の実情は知らないからね、戦争の背景はちゃんと公平な目線で見なきゃいけないのに、日本人は戦争で悪いことをした。加害者でしかないから一方的に謝り続けるべきだって学校でもそうとしか教わってこなかった。結果愛国心イコール軍国主義なんて下らない観念すら生まれ、国旗や君が代に反発する動きまで‥行きすぎた自虐史観教育、まあアメリカに押し付けられたものだが余りにも期間が長すぎたからね。]
[それじゃ何も出来ないの?鞠江さん、気の毒過ぎる‥何も悪いことしてないのに、他にも鞠江さんのように酷い目に遭った人は沢山いるのに‥]
妻の悲痛な訴えに貴之はそれでもしっかりした口調で、口を開いた。
[とにかく黙らないことだよ、これからもしっかり世の中に訴えていくことだよ。君の使命というか、ライフワークになるかもしれないね。]
夫の言葉に美也子はジャーナリストの端くれとして、自分が祖母道江から聞いたこの悲劇を何とかして現代の日本人に伝える為に活動していこうと心に決めた。貴之はそんな妻に自分の体を大切にすることも決して疎かにしてはいけないと言い聞かせるのも忘れなかった。
[鞠江さんのような悲惨な思いをするのは今の平和な日本では有り得ないかもしれないが、それでも君が無理して又辛い目に遭うようなことがあったら、お祖母ちゃんは勿論君の心を救ってくれた鞠江さんも多分悲しむと思うよ。]
[あなた‥]
[自分が出来ることを自分が出来る範囲でやるんだ。辛い話で心が折れそうになったら、いつでも僕に頼ってくれ。]
[有り難う‥]
夫の優しい言葉に思わず涙ぐむ美也子だった。そしてこれからの自分の仕事として鞠江への思いを新たにするのだった。
(鞠江さん、私はあなたを忘れない‥あなたの存在を知った人にも、あなたを忘れないで欲しい。その為にも私は頑張ります。有り難う私の心を救ってくれて‥)
どこまでやれるかわからない、でも自分は鞠江のことを決して忘れることは無い。彼女のような人達を最初から居なかった存在にしてはいけないから。堅くそう思う美也子だった。(了)